「世界のミフネ」と呼ばれた三船敏郎 その人生と作品たち

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人類史上この上なく映画俳優としての才能を持っていた男

 

三船敏郎という人はぶきっちょな人じゃないですか。黒澤監督に使われて、ほんとにすごい。

 

『酔いどれ天使』だってこんな人がいま私たちの目の前に居たらほんとに惚れたのにというような二枚目で、それがだんだん歳をとってくるということで『赤ひげ』まで、黒澤さんが三船さんを買ったんだよね。三船さんが居なくなってから仲代さんになるんだけれども、結局勝新太郎もダメだったわけでしょう。

 

たしかに仲代さんも素晴らしいわけなんだけれども、やっぱり三船さんを失ったときに黒澤さんは一つに時代を終えたんだと思うの。

 

そのくらい黒澤さんによって三船さんは生きたし、三船さんは黒澤さんを離れてから、ほんとうにダメになっていくでしょう。そういう意味でも、黒澤さんを見るならば三船さんのものを見るというのはやはり一つのセオリーじゃないかと思いますね。

 

私は『生きる』という映画が好きじゃないんですね。すごくよく出来ている映画だとは思うんですけど。『生きる』という映画に出ている役者さんたちはみんなすごいと思うの。日守新一さんだとかそういう人たち。ほんとにすごい人達じゃないですか。役者として素晴らしい人たちでしょう。千秋実さんだってこの時は凄かったし。

 

とにかくお通夜のシーンは凄かった。それは認めるんだけれども、どうも好きになれない映画なのね。ちょっとクサい感じがする。そういう意味で、やはり三船さんが出ているのはすごいと思うんですよね。

 

おすぎ

 

※4 河出書房新社発行 「黒澤明 生誕100年総特集」より抜粋

 

スクリーン上で他を圧倒する唯一無二の存在感。威圧感。
東宝ニューフェイスの面接での破天荒なエピソード。
『用心棒』の三十郎で演じたアウトローな魅力。『七人の侍』の菊千代や『羅生門』の多襄丸の野獣感。
酒の席でのエピソード。
女性関係の豪快さ。

 

などなど、三船敏郎は昭和のスターらしい豪傑漢であるという認識が一般的である思うが、いろいろな本や証言を見るにつれて、そういったステレオタイプの「三船敏郎感」ではなく、本当の三船敏郎という人間がだんだんと浮かび上がってきました。

 

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映画史に残る俳優

三船敏郎は、人類史上この上なく映画俳優としてのあらゆる才能を持ちあわせて、映画史上においてもドンピシャのタイミングで生まれてきた男である。

 

そして同時に恥ずかしがり屋であり、人に迷惑をかけることが苦手で、スター気取りも大嫌いで、周りに気を遣ってばかりの人情家で、自分の意見を押し通すことも苦手な心優しい人であった。

 

冷静に考えてみるに、世界でも類を見ないほどの完璧主義の黒澤明監督と16本の作品を創ってきたのです。20年近くに渡ってあの黒澤といっしょに仕事をしてきたわけです。基本が素直で真面目で辛抱強い人間でないと、早い段階で決裂していたはずです。

 

 

三船敏郎が持っていた一番の才能

黒澤明は才能の塊。だから才能がある人とは揉めて最終的には決裂してきた歴史があります。脚本家の橋本忍、菊島隆三、小国英雄、音楽家の武満徹、佐藤勝、俳優の勝新太郎…

 

黒澤は創作においてのぶつかり合いは絶対に他者に譲らなかったのだろう。そんな黒澤天皇とずっと仕事を続けられた唯一の才能ある人間が三船敏郎であった。酒に酔って「黒澤のバカ野郎!」と叫びながら車を飛ばしたりしたエピソードもあるが、それはかわいらしい反抗であって、決して面向かって黒澤に直接楯突いたりしたことは一度もなかったという。

 

つまり、三船敏郎の一番の才能は、才能ある人と折り合いよくやっていく人間力であったのではないかと思うのである。

 

三船プロダクションの複数の社員が三船敏郎という人間を一番よく表している映画は、稲垣浩監督の「無法松の一生」であると証言している。

 

この作品の主人公は寡黙で不器用、一途で義理人情に厚く、ひたすら我慢をしている男。こういう男を演じさせたら三船敏郎は高倉健を凌ぐほどのハマり具合あるというのである。

 

仲代達矢が振り返る三船敏郎

 

仲代と三船は『用心棒』『椿三十郎』『天国と地獄』で共演しているが、一度仲代主演の『御用金』という映画で2人は揉めている。しかしすぐに三船が謝罪しており関係は元に戻っているが、取り立てて仲が良いという関係ではないという。

 

仲代が『用心棒』に出演したときの三船の様子をこう語っている。

 

撮影現場の雰囲気が突然ビーンと張り詰めた。スタッフが顔を強張らせて上官に敬礼する軍人のように頭を下げていく。その中を無言で歩いてくるのが三船敏郎さんだ。

 

復員兵だからだろうか、三船さんは大スターになってからでも付き人を付けず、無遅刻で現場には台本を持ち込まない「三ない主義」を実践されており、当時に役者たちに大きな影響を与えた。

 

三船さんは全身から矢のような殺気を発していた。演技とはいえ、果し合いの相手になる緊張感といったらない。カメラテストから本気で刀を振り回し、身体に当てられるため青アザや切り傷、ミミズばれといった怪我が絶えない。

 

リハーサルを入念に繰り返す黒澤監督が、三船さんの出演シーンだけはすぐに本番となった。そうしないとセットが壊れたり、相手役が怪我をして撮影できなくなってしまうのだ。

 

※仲代達矢著書 未完。より抜粋

 

参考文献
※ サムライ 評伝 三船敏郎(文集文庫)

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