エルモの再来日と黒澤の自滅
撮影現場の混乱が収まらない!と、エルモに連絡を入れ続ける現場責任者のスタンリー。
それを受けて一度は監督降板の覚悟を決めつつ、エルモ自身が京都にやってくる。
現場で聞こえてくるのは黒澤の奇行、体調を崩しての撮影中断、「果たし状事件」「ヘルメット・ガードマン事件」など、コントのネタような話である。
黒澤は孤立し心身ともに疲れきっていた。
エルモは黒澤と直接会って、自分の目で状態を判断しようとする。
黒澤は疲れていたが、「トラ・トラ・トラ!」の製作を続けたいという強い意志は見える。
ならば何でも自分で抱え込まず、ある程度仕事を人に任せ、負担をできるだけ少なくして、効率よく進めてはどうかとアドバイス。
黒澤もそれを受け入れる。
リハーサルが再開される。
素人俳優を、その役どころである海軍将官の気持ちにさせるために、撮影セット入りする際にファンファーレを鳴らし敬礼で向かえることを現場スタッフに強要する黒澤。
白ける現場スタッフはストライキ。
しかし、これもクロサワ一流のやり方だ、彼はいい仕事をしているとまだエルモはあきらめない。がんばれエルモ。
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黒澤、医師との面会を拒否
12月16日、この日は休みであったが青柳は撮影の遅れを取り戻すべく、黒澤に呼びかけ、黒澤は折れて現場入りする。
昨日及び、一昨日撮影予定であったシーンのリハーサルを行おうとする。しかし、結局うまくいかない。
黒澤はクビにした現場スタッフを復帰させようとする。
現場スタッフは前日の会合でまとめた、仕事をスムーズに進めるための、黒澤への要求書をその場で青柳に渡す。
黒澤の診察を引き継いだ医師Cに、青柳はその日、宿に黒澤の診察に来てくれるようお願いする。
同時に黒澤の精神を安定させるために東京にいる黒澤夫人を呼ぶ。
3日目に黒澤を診た医師B、引き継いだ医師Cの両名が診察の為に宿にやってくるが、黒澤は面会を拒否する。
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現場スタッフ、黒澤に謝罪要求・ガラス割り事件
12月17日、現場スタッフは黒澤に対して、仕事を混乱させたことへの謝罪を要求する。
青柳が黒澤の前でその要求書を読み上げる場に、エルモとスタンリーも同席。青柳の通訳内容に不安を感じ始めたエルモは、フォックス日本支社の中曽根を伴う。
黒澤は謝罪を拒否し、宿に引き揚げる。
エルモとスタンリーは現場スタッフ及び7人の助監督から黒澤についての話を聞く。
スタッフは口々に不平を語った。
「黒澤監督は正常でない。撮影と無関係の要求が多い。軍隊式の敬礼強要、夏服事件、キャメラに映らない部分までセットの建て込みを要求する。スタッフジャンパーを着ていなかったことを理由に現場スタッフを追放する。」等々。
エルモは現場スタッフに、黒澤が落ち着くまで撮影を休んではどうかと提案するが、スタッフは黒澤に断固謝罪を要求する。
結局スタッフはストに突入してしまう。
その日の午後、昨夜宿で黒澤を診察するはずの医師が、病院で黒澤を待つが黒澤は約束を破り現れない。
その日の深夜、撮影現場がフォックス側に要求した通り、きちんと警備されているかどうかを確認する為に、黒澤と監督補佐の松江はステージを見回る。
ガードマンがいないと見てとった黒澤は、松江に撮影所の窓ガラスを割らせる。
しかし何の反応もないことに腹を立てた2人は太秦署に自首する。
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12月18日、黒澤はこの日病院にて休養する。
エルモは通訳テリーを連れて黒澤を診察した医師Cを訪ね、黒澤の状態を聞く。
診断内容はなかなか明かしてくれなかったが、心身の疲れがたまっているので、休養が必要であることは理解できた。
医師からのアドバイスは、黒澤は東京の病院で4週間の治療と、その後4週間から8週間の休養が必要であるとのこと。
黒澤について、エルモは初めてスタンリーから直接報告を聞く。
スタンリーは不眠を理由に毎日深酒すること、宿で物を壊すことなどを語った。
エルモは上司リチャードに対し、今すぐ予定を再調整すれば、クロサワを見限っても、予算内で予定通り映画を完成させることも不可能ではないと提案をする。
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以下リチャード宛に打電されたエルモのテレックス。
現在クロサワは緊張亢進症により疲労困憊の極にある。
今朝、医師はクロサワの完全回復には4週間から8週間の休養と加療を必要とするとの見解を示した。
しかしクロサワ自身は日曜日までには元気を取り戻して、仕事に復帰したいとの意向である。
医師の意見ではこの状態で無理に職場復帰すれば2週間以内に、更に状態が悪化し再び倒れる危険があるとのこと。
日本では12月30日から1月7日まで年末年始の休暇に入るので、速やかに撮影予定の再調整をはかる必要がある。
2箇所のロケ地の状況から見て、製作予定の変更を決断するのは今しかない。
第一の問題は巨額を投じた最重要の巨大オープンセットである戦艦「長門」と空母「赤城」の完成が目前に迫っていることだ。
このセットを使って撮影される予定の山本五十六長官と南雲忠一長官のシーンは、例年2月中旬から始まる冬嵐以前に完了させねばならない。
第二の重要課題は、フロントプロジェクション撮影の為に2月から3月まですでに貸借契約している大阪見本市会場の件である。貸借契約の延長は不可能である。
不可避の現実を受容して今直ちに予定を再調整すれば、仮に1月7日まで製作を中断しても、予算内でしかも映画の品質を失うことなく、完成予定に間に合わせることは可能であると考える。
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12月20日、午前中にセット入りした黒澤は、神経質そうで弱弱しいが愛想はよい。
現場スタッフと顔を合わせてまず話し合いを行う。
「要求は理解した」という黒澤の発言にスタッフは応えこの日のストを中止、3日ぶりに撮影作業準備に入る。
午後、黒澤はエルモにに対し次の要求をする。
「山本司令長官役の人間にはもっと立派な部屋が必要。鍵谷の控え室を作り替え家具を入れるべし。」
主役の部屋は、東映の看板役者・片岡千恵蔵の控え室でもあったのだが、置いていったファンからの贈り物や人形をかたずけさせ、ステージセットの一部を解体して控え室に持ち込み、建て込みをさせようとする。が結局無理だと判明。
そこで東映太秦撮影所内の俳優会館4階に、新しく控え室を用意させる。
俳優会館一階正面玄関から4階のその部屋まで赤じゅうたんを敷き、ぴかぴかに磨き上げた真鍮の手すりをつける。
冷蔵庫を置き、その中に入れる飲み物を吟味。
アルコールを飲まなかった山本五十六が艦内で何を飲んでいたのか、すぐに調べろとスタッフに命令。
黒澤は引き続きエルモに向かって、
「日本人が何回もこの映画を見るためには、脚本の変更が必要だ」と強調。
さすがのエルモも、この段階で何を言い出すのかとあきれて、黒澤では駄目だと、仕事の継続を諦めかける。
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素人俳優にキレて暴言を吐く
12月21日、リハーサルを行うも素人俳優だけになかなかうまくいかない。
撮影を見学していたエルモに黒澤は、
「この里島役の男に、演技は不可能である。そうだ。”気”を送ることで解決できるかもしれない。」
演技がうまくいかない里島役の俳優に向かって「それでも貴様、海兵か!」と暴言を吐く。
これを耳にした海兵出身の出演者たちは、宿舎でこれは許すべからざる侮辱であるとして、緊急集会を開き、出演者総辞退の話に発展するも、ここは我慢して撮影終了後にしかるべき抗議を行うという結論に至る。
以上文藝春秋発行 田草川 弘著 「黒澤明VSハリウッド」より引用
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