三船プロダクション『風林火山』の大成功 黒澤明の監督申し出があった?!

『風林火山』の成功

自社に本格的な撮影所を構えてからの三船プロは多忙を極めた。

 

昭和42年の『上意討ち』にはじまり。同年の『日本でいちばん長い日』、43年には『黒部の太陽』『連行艦隊司令長官 山本五十六』『祇園祭』『太平洋の地獄』の四本に出演。

 

そして昭和44年の『風林火山』と、7本の映画に立て続けに出演し、精神的、肉体的に疲労を極めていた。

 

『風林火山』は原作が井上靖、監督は稲垣浩、主演に三船敏郎、中村錦之助、石原裕次郎、佐久間良子という各社の看板スターを集めた超大作映画である。

 

『黒部の太陽』に続き、またしても三船は五社協定に挑んで見せたのである。

 

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五社協定の壁

 

ただし、いくら協定が緩んでいても、他社の看板スターの出演にはやはり、それなりの交渉が必要だった。

 

三船は自分が演じる山本勘助が生涯を通じて愛した由布姫役を佐久間良子にと考えると、東映の大川博社長を訪ねた。

 

そして次回は自分は東映映画に出演するというバーターを条件に、彼女の出演を承諾させた。

 

だが、大川社長は、三船とバーダーを約束した2年後の昭和46年に肝硬変で死亡。後継の社長は岡田茂に代わったが、三船は大川社長との約束を律儀に守った。

 

実際、三船は昭和52年から昭和61年までの9年間に、東映映画の

 

『日本の首領 野望篇』
『柳生一族の陰謀』
『日本の首領 完結篇』
『赤穂城断絶』
『水戸黄門』
『二百三高地』
『制覇』
『人生劇場』
『日本海大海戦』
『玄海つれづれ節』

 

の10本に出演している。 

 

三船は『風林火山』の製作の為に東弄西走した。

 

以前に企画に上がったものの、莫大な費用と、戦国物は観客動員が見込めないという見解から企画倒れになった経緯がある。

 

その為今度こそ実現させようと意気込んでもいた。

 

三船は、映画のメインである合戦シーンには300頭以上の馬が必要であると分かると、福島県の「相馬野馬迫」で有名な相馬市へ行き、市長に会って馬の出演と撮影協力を取り付けた。

 

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黒澤明からの申し出

当時、三船プロの製作部長で、三船敏郎の右腕と呼ばれる存在になっていた田中壽一は、映画が製作されることを聞いた黒澤監督から、頼まれたことがあるという。

 

ある日、黒澤さんに呼ばれて『壽一、俺に風林火山撮らせてくれよ』と言われたんです。黒澤さんの中では、すでに音で絵が決まっていて、こんな風にと大敵な話をされましたが、監督も配役もほぼ決まっていたので、『それは難しいですよ』と答えました。

 

『じゃあ、タイトルと騎馬のシーンだけでも撮らせてくれ』とも言われたので、稲垣監督に話をしてみましたが、『絶対に無理だろ』と。

 

当然ですよね。クラインクインを直前にして実現できるような状況ではなかった。

 

タイトルと先頭シーンだけといっても、黒澤明に撮影を任せたら凝りに凝った映像になり、かなりの予算が必要になるだろうことは容易に想像ができた。

 

しかも今回の製作は三船プロで大手の東宝ではない。限られた予算を削るわけにもいかず、いくら黒澤が望んでいようとも実現不可能な現状であった。

 

三船自身も黒澤の申し出を聞いて悩んだ。黒澤とまた仕事が出来るのなら、こんなにうれしいことはない。だが苦渋の思いでこ断りの返事を入れた。

 

当時の心境を三船はこう語っている。

 

はっきり言って、黒澤監督にやっていただけるだけの力が、残念ながら三船プロにはなかった。

 

興行収入1位の大ヒット

三船やスタッフたちが一丸となって4創り上げた『風林火山』は、公開と同時に大ヒットし、日本映画が翳りをみせて久しい時代に興行収入1位、配給収入7億2000万円という記録を打ち立てた。

 

三船は『黒部の太陽』に続いて、高額の収入を上げ、五社協定の壁を完璧に打ち砕いた。

 

映画の打ち上げのときは、エキストラまで招いて大宴会を開き、一晩で700万円も使った三船だが、この作品の成功のおかげでそれまで抱えていた三船プロの借金を全額返すことができ、スタジオも増やすことができた。

 

田中壽一が、撮影中の”秘話”を明かす。

 

『風林火山』は、福島で撮影をやったんですけど、夜の9時ぐらいかな、東京から車を飛ばして勝新太郎が飲みに来たんですよ。共演の中村錦之助はいつも午後5時か6時ぐらいから飲みだして、いったん寝るんです。そのあと10時から11時くらいに起きてきて、そこからまた3人で飲み続ける。

 

三船さんはこの2人がいるときは常に側にいて付き合った。泥酔して2人が寝てしまうまで酒宴に付き合う。

 

そして三船さんに凄いところは、途中で『ちょっとトイレに行く』といって部屋を出ていき、なかなか帰ってこないわけです。

 

どうしたのかと思って、戻ってきたときに『気分が悪いんですか』と聞いたら、『いや、トイレの小便をするところが汚れていたから、拭いていたんだ』と。

 

錦之助とか勝新が汚したトイレを三船敏郎が拭いていたんですよ。

※サムライ評伝 三船敏郎(文春文庫)より抜粋

 

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