昭和43年、三船敏郎と石原裕次郎は東映、東宝、日活、大映、松竹の5社が結んだ
「監督や俳優は貸さない、借りない、引き抜かない」
という協定に立ち向かった。
当時の映画界にはこの「5社協定」を破ったものは、全ての社から拒絶され、映画界から追放されるという暗黙のルールがあった。
三船は東宝、石原は日活とそれぞれ専属で契約を結んでいる身である。
この2人が組んで映画を製作するとなると、当然ながら大きな反発が予想された。
三船と石原は「三船プロ」「石原プロ」の合同製作という形で企画を進めようとしたが、監督を熊井啓に決めた段階から、苦難の道を歩むことになった。
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熊井啓監督の懲戒解雇
三船は熊井に出会い、「出来るだけ金を集めますからあとはよろしく」と笑ってみせたが、日活の社員であった熊井は、企画を知った会社から、作品の監督を降りるように申し渡された。
日活社長直々の命令であった。
しかし、どうしてもこの映画を撮りたかった熊井は、悩んだ挙句会社に辞表を提出。しかしそれはその場では受理されなかった。
だが、会社に楯突く監督に怒ったのか、後日、熊井の元に速達書留で、懲戒解雇通知が届いた。いわゆるクビである。
これを知った三船は熊井に申し訳ない、と詫びたが、映画製作への思いは薄れるどころか、さらに燃え上がっていった。
三船は日活が承諾しなくても映画を作り、フィルムを担いでアメリカでも東南アジアでも、売りにいく覚悟でいた。
敵は強大で執拗で陰険
三船は『黒部の太陽』の映画パンフレットに、「日本人の魂がある」と題して、下記の文章を残している。
敵は無限に存在していた。
しかもその敵はたいへんに強大で執拗で陰険で、腹を立てる対象としてはまことに始末に負えないシロモノであった。
それとの闘いは全く疲れさせられた。
裕次郎君はわりに図太い。「ほっとけば死滅するものですよ」と言う。
しかし私としてみれば、敵はあくまで憎むべき”敵”であり、この手で絶滅したいのであった。
その最もいい方法であり、唯一の方法は、作品を完成させ、立派な映画に仕立て上げること以外にない。
五社協定に従わないものには、嫌がらせや圧迫などのさまざまな制裁が待っていた。
事実、日活の社長の堀久社長は、新聞社の取材を受け、「日活はもとより、他の四社も配給しないはずだ」と公言した。
さらには「二人には、金をかけても配給ルートのない映画を作るのはやめなさい。今からでも遅くない、と言って聞かせた」と語っている。
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三船のとっておきのカード
そこで三船は、パンフレットの言葉通り、敵を絶滅させるための行動をおこした。
どんなに誠意をもって交渉しても、納得する相手ではないと判断したからだ。
三船は単独で堀社長と面会し、強力なカードを切ってみせたのである。
「関西電力が、映画の前売り件100万枚を保証してくれています。」
彼の言葉は嘘でもハッタリでもなかった。映画化をきめた時、三船、石原、中井(石原プロ専務)の3人が関西電力を訪問して、同社の芦原義重社長に会い、製作への協力と前売り券の販売を頼んだ。
芦原社長はこれを快諾し、むしろ「社の偉業を自己資金で映像化してくれるはすばらしい。強力は惜しみませんので、頑張ってください」と激励を受けていた。
社長から直接、オッケーをもらっているのである。
三船はそれらのいきさつを説明した上で、ダメ出しの提案をした。
「映画の配給は日活ということで、いかがですか」
当時、一般用前売り券の価格は一枚350円が相場であった。
百万枚なら、3億5000万円である。さらに関西電力だけでなく、東京電力、中部電力はもちろん、おそらくは国内すべての電力会社、および黒四ダムに関わった数社の建設会社も前売り券販売に強力しるであろうと、付け加えた。
これはどれほどの興行収入になるだろうか…
三船と裕次郎の完全勝利
堀社長は、この三船との面談で大幅な方向転換を決めた。のちにこう語っている。
ここはひとつ、勇断しなきゃだめだ。勇気をもって配給しようという結論に至ったんです。
それを東宝さんにも話したところ、東宝さんとしても三船がこの映画に大金をつぎ込んで、配給ルートがないためにスッカラカンになったんじゃ、三船の前途をあやまらせるんじゃないか。
ということで、なんとか日活さんの力でできるなら、やってみてくれませんか、ということになった。そこで、日活は配給に踏み切ったわけです。
熊井啓監督を協定のルール違反として、懲戒解雇にした日活が、自らルール違反を犯したことで、五社協定は破られた。
三船敏郎と石原裕次郎という2大スターが、巨大権力に風穴を開けたという功績は非常に大きかった。
このページの参考文献
※ サムライ 評伝 三船敏郎(文集文庫)
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