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5社協定という破水帯
映画業界は大手5社が「俳優、監督を貸さない借りない引き抜かない」という5社協定を結んでおり、これに背いた者は、暗黙の了解で干されるというルールが存在していた。
大映社長の永田雅一の主導で成立したこのシステムは、1971年をもって自然消滅するまで15年以上にわたって続いた。元々は戦後日活撮影所が映画製作を再開させたときに、他者5社から俳優や監督を引き抜こうとした。これを防ぐ目的で協定は成立した。
この5社協定に立ち向かったのが、2大スター三船敏郎と石原裕次郎だった。
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世紀のタッグ ミフネと裕次郎
ミフネと裕次郎は「世紀の難工事」と呼ばれた黒部第四ダムの大町トンネルの開通にスポットを当てた映画「黒部の太陽」を三船プロと石原プロの共同製作で作ることを発表する。
三船は東宝専属、裕次郎は日活の専属、この2人がタッグを組めば協定違反となる。お金をかけて映画を完成させたとしても、5社が結託して配給しなければ映画は公開されないのである。
また日活専属監督の熊井啓も「黒部の太陽」に入れ込み、日活を解雇になる事態も起きていたが、熊井はこの作品に監督生命をかけていた。
そこで三船は日活の堀社長に直談判する。
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「関西電力が、映画の前売り券百万枚を保証してくれます」という強烈な口説き文句を放つ。関電以外にも東京電力、中部電力など、黒部第四ダム建設に携わった会社数社が前売り券販売に協力するという確約を三船は関電トップから貰っていた。
そのあとに三船は「配給は日活でいうことでいかがですか?」
おそらくそれを聞いた堀社長は、頭の中でそろばんが弾かれて、儲けがみえたのでしょう。即決だったでしょうが後にじっくり考えた感じで発言しています。
「ここはひとつ、勇断しなきゃダメだ。勇気をもって配給しようということになったんです。それを東宝さんにも話したところ、日活さんのところでできるんならやってくれませんか?ということになったんです。」
結局、東宝がロードショー、日活が一般公開で配給権は分配された。「ロードショー」というのは現在は「封切り」「公開スタート」という意味で使われているが、このころは、都市部での先行上映のことをロードショーと呼んでいた。
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昭和の経済成長の基盤を作った土建屋たちのドラマ
映画はトンネル掘削作業に立ちはだかった破水帯との闘いを描いている。
三船が演じた北川次長は関西電力ダム建設担当の芳賀公介がモデルとされている。社長の太田垣は実名のまま映画で演じられている。
実質、黒部は秘境であったため、調査はほどんど取れていない未知の現場であったが、太田垣社長は関西の電力不足を解消する手段は黒部しかないと決断、400億円の総工費を投じる一大プロジェクトを始動させた。
資本金130億円の起業が400億円の事業を始めたのである。世界銀行からの借金をしての着手だった。
フィクションとノンフィクション
石原裕次郎演じる岩岡は土建屋熊谷組の下請け会社の社長の息子。
実際の掘削班のリーダーだった笹島信義というトンネルマンをモデルにしてはいるが、裕次郎演じる岩岡は映画オリジナルのキャラクターでしょう。
モデルとなった笹島は昭和28年に行われた佐久間ダムでのトンネル掘削作業を請け負い、掘削スピード日本記録を打ち立てたプロフェッショナル。戦争中、首を銃弾で打ち抜かれても生き抜いたという不死身の男。
映画では北川の長女と岩岡のラブロマンスも織り込まれているが、これは映画上でのフィクション。この設定は個人的には要らないと思いましたが、映画として完成させるには綺麗な女性の画も最低限必要だったのでしょう。
しかし、工事中に北川の三女が白血病に侵されて、亡くなるというのは事実。芳賀は娘の病魔と現場の破水帯という2つの敵と戦っていたのです。
撮影は熊谷組の監修で同じスケールでのセットが作られ、破水帯との格闘を撮るシーンで事故が起こったという。水が大出水するシーンで、思ったより水量が多く、またタイミングもずれたことで、俳優・スタッフもろとも水に?まれるという事故がおこったのです。
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CGなどない時代の命を張った撮影
監督をした熊井啓が事後を語る。
「いよいよ本番となり、キャメラが回ると同時に水門が開かれた。だが切羽は予定の数秒を過ぎても一向に破れる様子がなく、タンクの水は切羽の奥で渦巻き音を立てているばかり。「でかいの来るぞ!」と三船さんは全員に向かってさけんだ。その数秒後、切羽は大音量を上げて砕け散り、膨大な水が噴き出してきた。三船さん、石原さんは水中に没しかけながらも懸命に走った。その姿を数台のキャメラがしっかり捉えた。もし三船さんが恐怖で立ち竦んでいたら、死者が出たかもしれない。あの時全員に声をかけながら切羽に向かって仁王たちになり、襲ってくる水の中で決死の演技をした三船さんの姿が、三十年以上たった今もまぶたに焼き付いています。」
かろうじて死者は出なかったが、負傷者が病院に運ばれる撮影事故になり、石原裕次郎も意識を失い、右手親指を骨折するという命がけのロケであったという。
そのすさまじさは、しっかりと映画中盤で見ることが出来る。このワンカットだけでも見る価値がある映画です。CGでは絶対だせない映像の魅力。本当の事故現場をみているような臨場感はすごいです。
記録的な大ヒット
関西電力を始め、熊谷組、間組、鹿島建設、大成建設、佐藤工業などの建設会社やその他多数の人的支援と協力があり、撮影にはスタッフ・キャストが文字通り命賭けで挑み、5社協定のタブーを乗り越えて完成した『黒部の太陽』は興行収入約16億円(現在の90億円相当)という驚異的な大ヒットを記録し、この年最大のヒット作となった。
土建屋たちの執念が破水帯を突破したように、ミフネ、裕次郎、熊井監督等映画人の執念が5社協定という破水帯を突破したのです。
このページの参考文献
※ サムライ 評伝 三船敏郎(文集文庫)

三船敏郎 「男の癖にツラで飯食うなんてイヤです!」 元々は撮影部希望だった!
1920年(大正9年)、4月1日、中国山東省青島に三船家の長男として生まれる。父の徳造は秋田県出身で、中国に渡り、青島、泰天、天津あたりに店舗を構えて「スター写真館」という写真店をやったいたという。日露戦争では、従軍カメラマンをやったという父。幼い頃から大連で家業を手伝い、写真技術に詳しくなった。大...三船敏郎 酔いどれ天使でヤクザを演じ人気爆発!
三船敏郎に惚れた黒澤明三船敏郎の衝撃デビュー作「酔いどれ天使」は、山本嘉次郎監督の「新馬鹿時代」で組まれた闇市のセットが大掛かりだったので、解体する前にもう一本撮っておきたいという都合から製作されることとなった。「日常性を描くなんて、もうごめんだね。俺の今やりたいのは逆に日常性の中からカアッと飛躍し...三船敏郎とニューフェイスの同期生だった幸子夫人との新婚生活
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三船敏郎と言えば、黒澤明監督の『羅生門』『七人の侍』『用心棒』などの映画タイトルを連想する人が多い。そう黒澤明とのタッグ作品である。しかし、昭和33年に公開された稲垣浩監督の『無法松の一生』を三船の代表作であるという人も少なくない。。稲垣監督と三船は、20本の映画を作っている。以外かも知らないが黒澤...三船敏郎の殺陣の凄さとは?!殺陣師宇仁貫三が語る三船敏郎の殺陣の謎
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昭和43年、三船は杉江敏男監督、黒澤明・山中貞雄脚本の『戦国群盗伝』という時代劇に出演した。共演は鶴田浩二である。鶴田は前年に東宝と専属契約と結んでおり、松竹から移籍してきたことを強く意識していた。「何か三船だ!俺も天下の鶴田浩二だ!」と公言してはばからなかった。彼は三船とは正反対に、付き人を何人も...三船敏郎と『上意討ち』 小林正樹監督のいじめに耐えた?!
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