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黒澤さんは必ずどこかに仕掛けがありましたね
黒澤映画では『素晴らしき日曜日』から『まあだだよ』まで、約50年にわたって撮影に携わってきた斎藤孝雄氏。
メインの撮影監督になるのが『椿三十郎』ではあるが、それまでもマルチカムの2台目の撮影はすべて斎藤氏による撮影であった。
以下、インタビュー記事の抜粋である。
黒澤の第一印象や撮影術について
※河出書房新社 生誕100年総特集 黒澤明 永久保存版より
――斎藤さんは『素晴らしきに日曜日』で中井朝一キャメラマンの下ではじめて黒澤監督に付いてお仕事されたわけですが、当時の黒澤監督はどのような存在だったのでしょうか?
斎藤 「当時の僕はまだ映画というものがわかっていなかったから、自分の仕事で精一杯であんまり覚えてないんですよね 笑」
―― 第一印象などは。
斎藤 「やさしかったですよ。でも仕事に手を抜かないという印象はありました。妥協はしない。」
―― それは役者さんに対しても?
斎藤 「そう、この俳優さんはここまで出来るというご自身の考えがあったんでしょうね。逆に言えば、この俳優さんはここまでかな、と思ってもこうすればまだ先に進むという指導をされていました。」
―― 当時製作されていた東宝作品の中でも、黒澤作品というのは時間の掛かるものだったのでしょうか?
斎藤 「そうですねぇ、当時としては普通だったと思いますよ。」
―― 『素晴らしき日曜日』の撮影期間はどのぐらいだったのでしょうか?
斎藤 「50日強だったと思います。撮り方もキャメラは一台で、普通の撮影方法でした。」
―― 中井朝一さんとのやり取りも含めて…
斎藤 「そう、オーソドックスな形でした。」
―― 斎藤さんは『素晴らしき日曜日』の頃はサードの撮影助手だったのにもかかわらず、『七人の侍』ではチーフになっていらっしゃいます。
斎藤 「早い方ではあったと思います。当時は新東宝へ人が行ってしまったということと、組合の絡みで人が出て行ったことで、大争議のあと残った人数が少なかったこともあります。」
―― 黒澤監督以外の監督ではどの監督とお仕事が多かったのでしょうか?
斎藤 「成瀬己喜男、谷口千吉さんが多かったですね。」
―― 作品だけ拝見していても、黒澤監督と成瀬監督とは、非常に対照的な感じがしますけれども。」
斎藤 「出来上がりと同じく、監督としての作風が違いましたからね。成瀬さんはもの静かというか、でも言いたいことはチクっと言っていましたが。」
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『蜘蛛巣城』から『赤ひげ』まで
―― 蜘蛛巣城から斎藤さんはBキャメラとして活躍されたわけですが…。
斎藤 「『生きものの記録』の頃から、黒澤さんはキャメラを2台使ってらっしゃったから、そのうちの一台は僕でした。ただ当時はまだ助手という立場でしたけれども。」
―― 作品ごとに異なるのでしょうけれども、綿密な打ち合わせがあったのでしょうか?
斎藤 「黒澤さんは必ず、撮影本番前に何日かはリハーサルでテイクをとるでしょう。そのリハーサルで、やることの90パーセントは決まってしまいましたね。」
―― 絵コンテを描かれていたのはそのころからでしょうか?
斎藤 「そうですね。『七人の侍』の頃から描いていました。
撮影前に、そのシーンに限り描いて来られました。野武士が登場するときの配置とか動きを図解で示してくれたわけです。
もちろん画面のコンテもありましたが。それ以降、作品ごとに絵コンテの枚数も増えていきました。
―― 『蜘蛛巣城』ラストの矢のシーンなどは、見るに大変そうだなと。
斎藤 「大変でした。弓を射るものも大学の弓道部かアマチュアの人でしたから、三船さんが毎日大変怖がってらした。
―― 中井朝一さんと大映の宮川一夫さんとでは、やはり撮り方も異なるのでしょうか?
斎藤 「多少の違いはありましたね。ライトの出し方など含め、キャメラマンとしてそれぞれの作風がありますので、個人差はあります。
宮川さんの作風がかっちりしていますでしょう。僕は若かったから荒っぽく振り回していた。
黒澤さんは両方のキャメラを必ず見るんですよね。」
―― 『椿三十郎』でいよいよ本格的に関わるわけですが。
斎藤 「黒澤さんの要求はある程度分かってきていましたし、毎回作品に入るまでのディスカッションは長くやっていたんで、今まで通りでした。」
―― 若侍が動くところなど、ヤマタノオロチのようにというか、上手くシネスコの画面の中に配置されていて感心しました。
斎藤 「ご存じのように俳優を動かすのが上手でしたからね。個々のアップはほとんど少なかったですね。
集団演技ばかりでした。その中で皆がキャメラに入るように動かされていた。」
―― 『天国と地獄』でカラーの煙突の煙については、最初から打ち合わせ済みだったのですか?
斎藤 「そう、最初から。物凄く印象的にする為に、煙を赤く着色してパートカラーにしたのです。」
―― これは実現していませんが『椿三十郎』の椿においてでもそうだったんでしょうか?
斎藤 「そうです。でも当時はなかなか困難でしたね。椿の花の赤だけを出せないものかと、色々研究とテストをしました。
そこで、モノクロで見てすぐ赤に感じるのは…と本当の椿の赤からほとんど黒に近い位の色まで数段階のテストをして決めました。」
―― 『天国と地獄』の列車シーンなどは?
斎藤 「一発勝負でした。当時の国鉄のダイヤに割り込んで貸し切ったわけですから。
8台のキャメラを使いました。先頭の車両の運転席にボーズンという刑事役の石山健二郎とチーフ助監督の森谷司郎さんと僕と3人で入っていたのですが、テイクした通り石山さんがやらなくて、全部タイミングが狂っちゃって。
でももう一回という訳にはいかないから。黒澤さんはあれはあれで面白くなったと、上手く編集していました。
―― 『赤ひげ』でもご苦労があったと思いますが。
斎藤 「撮影に長く掛かりましたから。俳優さんのスケジュール調整も大変でした。」
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カラーのクロサワ映画
―― それ以降、ほぼ5年ごとの撮影期間になりますね。カラーになったのが『どですかでん』からです。
斎藤 「それ以前から研究はしていたのですが、思ったように色が出ないと問題なので控えていたようです。
この作品では「思い切った色使いでやる」と言っていましたね。例えば、撮影日が曇り空だった際、伴淳三郎の家の影を地面に墨汁で書いたりしていました。
面白い感じだったですねぇ。また赤い家、黄色い家などと…。」
―― 複数のキャメラというマルチカム・システムは『生きものの記録』の頃からということでしたが、最も台数か多かったシーンはどれだったのでしょうか?
斎藤 「だいたいが多くても3台から4台でした。『影武者』『乱』などでも。最も多かったのは、先ほどの列車のシーンで8台ぐらいでした。
特殊なシーン以外は2台でしたね。また黒澤さんは撮影の直後にある程度編集していましたから、今日で全部撮影終了という翌日には、ほとんど全部編集が出来ているので、オールラッシュを早く観ることが出来た。
しかもその後の直しというのはほとんどなかった。黒澤さんの場合にはラッシュが上がればすぐ編集という感じでした。
編集も大変上手でしたので、撮影終了後の編集妙技に接するのが大変な楽しみでした。
斎藤 「『影武者』の時などは、北海道のろけも長期になりましたので、ホテルに編集機を持ち込んで、雨の日には作業されていましたから。あれだけ多くの馬が絡んでくると、皆が心配するのが、乗り手の怪我でしたね。
最後の方で全滅して馬と一緒に倒れるところ、あそこは監督もずいぶんと気を遣われていましたね。
倒れる武者が馬の脚の方に行って蹴飛ばされないように、馬の首や背中の方へ行くようにと指示されていました。
ある約束事が本番で少しでも違っていると、非常に気にされる方でしたから、それがあるのでしょう。」
―― 斎藤さんにおけるベストショットは『夢』の中の「赤富士」だと伺っています。
斎藤 「全部の作品と思っておりますが 笑 あれは特撮をルーカス・フィルムに頼んでいました。
向こうのスタッフも黒澤さんの仕事ということで緊張していましたから、なかなか出来上がってこない。
上がってこないから僕が直接指示に行ったんです。黒澤さんの作品には必ず一つの宿題があって、その連続でした。
先ほどお話しした椿とか煙突とか、仕掛けのポイントというのが必ずありました。」
―― それは、台本が上がった段階で斎藤さんに対して直接相談があったわけですね。
斎藤 「そうです。」
―― 『八月の狂詩曲』の中では、そのような宿題とな何だったのでしょう?
斎藤 「ロケ・セットのお婆ちゃんの家で、縁側に座って真正面を見たときに、山が重なりあうようなところを探してくれ、ということでした。
北海道から九州まで駈けずりまわりました。結局、秩父にそれに近いロケーションがみつかりました。
『影武者』や『乱』の場合も、あれだけの馬が全力疾走出来るところをということで…。」
―― 『まあだだよ』のかくれんぼのシーンの場所などは、ここはいったいどこなんだろうと思いましたが。
斎藤 「あれば御殿場です。」
―― そうだったんですか。黒澤監督は他の監督の作品についてコメントされるようなことはなかったんですか?
斎藤 「外国・日本映画と、多くの映画についてよく話してくださいました。」
―― 黒澤監督と洋画などを参考の為に観に行かれたことなどはあったのでしょうか?
斎藤 「ありましたよ。東和などの試写会でしたね。その帰りに一杯やるんですが、黒澤さんのお宅にそのまま行ったり。『カラーパープル』などは大変でしたよ。終わった後に皆立ち上がれなくて。」
―― 黒澤監督が気に入られた作品などは他には?
斎藤 「コッポラ、スピルバーグ、ルーカス。彼らの作品は必ず見ていましたね。また、コッポラなどは『地獄の黙示録』のころは、黒澤さんに相談していましたね。」
―― 伊丹十三監督などがそうでしたが、ビデオモニターで見るといったことは、黒澤監督にはなかったのでしょうか?
斎藤 「演技指導もスタッフへの支持も、肉声で言わないと気持ちが通じないと言っていました。メガホンも本当は好きじゃない。」
―― 亡くなられてから、黒澤監督の『海がみていた』の脚本の存在が公になったわけですが、先日黒澤久雄さんが是非実現したいとおっしゃっていました。
斎藤 「監督とは時々お会いした時に、あそこはどういう風に撮ったらいいか、なんて話はしました。
ロケーションのオープンセットを組むのにはどの場所がいいかな、ともお話をしました。条件があったんですよ。
お女郎屋さんでも窓から見ると芦のある河が見えるところという。昔の町はずれの雰囲気を出せるところ。
具体的には動いていませんでしたけれども、この時代ですから、資金繰りが大変ですからね。
そんな話をしたのが最後で、もう一緒にお仕事をすることは出来なくなってしまいました。」
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