「うちの父が三船さんのことを嫌いだなんて言ったことは、一度もありませんよ。」
そう断言するのは、黒澤プロダクション社長で長男の久雄氏だ。
黒澤明が世界中から注目を浴びたのは、三船さんのお蔭だと思います。父は三船敏郎という役者の存在感をうまく生かして注目を浴びた。
黒澤明の映画人生において、彼がいたことによって、随分やれることが増えたし、色々なことができたんです。
同じことは三船敏郎にも言える。三船には黒澤明がいたから、自分は俳優としてここまで来られたという思いはあったでしょう。他の監督ではそうはいかなかった。
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子供のころの三船の印象
久雄氏は昭和20年生まれで、幼稚園の頃から三船に会っていた。
そのころは、父親の知り合いという意識だったが、子供の目かあ見ても、几帳面で綺麗好きな人に映ったと話す。
最初の印象は強そうな人だと思いましたね。三船さんが持っている迫力です。それに普段は本当の自分を見せない人という感じもありました。
家の中にいるときは、きっとこういう人ではないんだろうなと。
映画の中の三船を観たのは、いつだったか定かではないというが、久雄には三船敏郎が好きだったと話す。
父親の作品には欠かせない俳優だったからという単純な理由ではない。
いつも、三船敏郎であろうとしている姿が好きだと。基本的には強い役が似合う。本当はナイーブなのに、破天荒な人物をやらしたら天下一品。そんな天性の魅力にひかれていたという。
黒澤作品での三船は『羅生門』『七人の侍』『隠し砦の三悪人』『用心棒』『椿三十郎』など、強くて破天荒な人物の役が多い。
ワンカットで十人斬りの殺陣だけじゃなく、過酷な撮影現場も多かったが、三船は監督の要望に応え、現場で苦情や愚痴を言う事もなかった。
うちの父は、家では普通だたけど、現場へ行くと鬼でしたね。現場での撮影を見て、父を嫌な野郎だと思ったことが何度もありました。
役者さんが可哀そうで、僕はそこまで出来ない、と思ったもの。でも、父から言わせれば、「小津さんの方がもっと惨い。撮影中、役者さんに、はいもう一回、としか言わないんだから。」と。
酔っ払い三船敏郎の印象
黒澤作品に出演中、三船が何度か酔って暴れたことを黒澤はどう思っていたのか。久雄にさぐってみる。
三船さんが暴れているのは、なんとなく憶えています。でも三船さんはいくら酔っても、父の前では暴れたことはなかった。
家の周りを車で走るとか、塀を殴るとか、そのくらいで、父も気にはしてませんでした。
三船さんはあれだけ注目を集めて、世間の目にさらされていたら、それなりに辛いだろうから、少々のことはいいんじゃないですか。
父の方はいくら飲んでも崩れませんでした。いつもと変わりかなかったですね。
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三船の立ち回り
黒澤明は、三船の殺陣の凄さを絶賛していた。殺陣を演じる三船は黒澤の中で猛獣のように映っていた。
父は三船さんのことを、猛獣みたいだと言っていました。三船さんと仕事をするのは猛獣使いになった気分だと、話していましたね。
三船さんの立ち回りが36ミリのフィルムで流れていたんです。でも、もの凄いスピードなので、刀の動きが映らないんですよ。そんなことが出来る俳優さんは、現在でもいないと思います。
黒澤明は三船の立ち回りの凄さに感嘆して、そこまで突出した俳優を扱う自分を猛獣使いに例えた。
父は三船さんを好きだったと思います。まず、俳優として魅力的だった。それから彼の立ち振る舞いも素敵だった。それら全てを認めていたと思います。
三船さんは脇役の人のように、細かい芝居がうまいとか、リアリティがあるとか、そうじゃないから主役なんですよ。
今の役者さんって、小芝居をしてつまらないですよ。三船さんは上手い役者さんではないけど、余計なことはしなかった。その代わり、父の映画には藤原釜足さんとか、渡辺篤さんとか、上田吉二郎さんとか、素晴らしい沸く役の方たちがいらした。
黒澤と三船がジョン・フォードとジョン・ウエィンの関係によく似ていますね。芝居が上手い人と、主役が出来る人はまた違うんですよ。
主役を演じる俳優には、大きな華、特別なオーラが必要だ。三船にはそれがあった。
黒澤と三船が離れた理由
では『赤ひげ』を最後にして、黒澤と三船が組んで映画を作らなくなった理由は、なんなのだろうか。
『赤ひげ』については、僕も父に「主人公があんなに強く見えてはいけないんじゃないかな」とは話ました。
ヤクザとの立ち回りは、東宝からの要望でしょうが、本来は立ち振る舞いが、もっと柔らかい人で、凛々しいところは凛々しいけど、普段は背中の曲がった老人のような人じゃないか」というイメージが僕には強いんですよ。
多分、父もそう考えたと思うし、小国さんもそのことを「あの三船は違うぜ」って言ったのかもしれません。
三船さんはこれまで強い役ばかりやってきた訳ですし、存在感のある素晴らしい役者さんですから、三船さんが悪いのではなく、父のキャスティングミスだと思います。
三船の良い所は全部撮り尽くした
この『赤ひげ』はキャスティングミスだったとしても、またこの後、新しい企画をつくって2人でタッグを組むことは可能であったはずなのに、なぜ、二人がともに仕事をすることは二度となかったのか。
父は、三船敏郎の一番いい部分はもう全部撮ったと、考えたんじゃないかな。脇役の方は、何人もいるけど、主役で黒澤明に付き合ったのは三船さんぐらいだったし。
ただ、二人が組むときに求められるのはやはりアクションなんですね。でも、それはもう二人ともキツいことが良くわかっていたんです。
黒澤明も三船敏郎も、歳を取ったんですよ。もしかすると、三船さんのリアルなおじいさん役を黒澤明は見たくなかったのかもしれない。
体力、気力の衰えは、監督はよく分かるんです。役者さんはまだ、野球で言えばホームランバッターという意識が強いから、気付くのに、もっと時間が掛かるんですよ。
父が器用におじいさんの役がやれるように、三船さんを導いてあげればよかったのかもしれないけど。
役者さんって、自分が歳を取ったということを突きつけられるのは、とても嫌なことだろうし、そのあたりが難しい。
いつも凛とした三船敏郎でいるのか、衰えていく自分を出すのか、役者さんとしての課題ですよね。
このページの参考文献
※ サムライ 評伝 三船敏郎(文集文庫)
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