勝新太郎は、かつたて三船と対談した日のことをこう語っている。
「酒を飲みかわしながら話したんだが、一緒にいることでひとつ格が上がったなぁ、とフッと思えるような人だった…」
三船敏郎は酒癖が悪いとか、酒乱とか言われているが、本当だったんだろうか?
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関係者の証言
三船は気遣いが日常的、心根が優しく、几帳面、責任感が強くて、人様に絶対に迷惑を掛けたくないという人だった。
典型的な、酒を飲んで暴れてしまうタイプな感じはするが、それだけ仕事に対して、人に対して真面目に接することしか出来なかった三船なのだから、これは必要悪というか、致し方がないというものではないだろうか。
三船の息子、史郎と武志が口を揃えて言うことは、
「酔った父が暴れるのは日常茶飯事であった」
ということ。夫人の幸子が家から逃げ出して、志村喬の妻・政子のところへ行き、仲裁に入ってもらうことは度々だった。
志村夫妻を親のように慕っていた三船は、それでおとなしくなったという。
司葉子の証言
三船と共演が多かった司葉子は、彼が酔った姿を何度か目撃したという。
成城は東宝撮影所の近くで、日本のビバリーヒルズと呼ばれていたんです。
三船さんと共演が多かった志村喬さんや千秋実さんら、黒澤一家みたいな俳優さんたちがたくさん住んでおられた。
だから、三船さんが酔って車を走らせているエンジン音を何度か聞きました。「バカヤロウ!」と声がするから、またご発散ね、という感じでした。
奥さんは三船さんと同期のニューフェイスでしたよね。奥さんはご苦労なさったと思います。
三船さんがお酒を飲まれたときには、車の中でお休みになったこともあるみたいです。三船さんはいつも他人には迷惑をかけないようにしていましたから、奥さんに対しては風あたりがきつかったかもしれませんね。
だけど私たちにとっては、最高の紳士でした。
夏木陽介の証言
三船がもっとも可愛がったという俳優の夏木陽介は、三船が酒で乱れる姿は一度も見ていないという。
暴れたという噂は色々聞きましたが、僕の前では一度もなかったですね。というのは、僕は一滴もお酒を飲まないんですよ。だから、アルコールの場には行かなかった。
ただ、昨日は田崎潤の家でピストルの音がしたという話は聞きましたね。
実弾です。田崎さんは僕の家の裏に住んでいたんです。田崎さんの家の前が団令子の家で、その隣が藤木悠の家でした。
田崎さんの家でご夫婦だけを呼んで食事会があったのです。平田昭彦ご夫妻とかね。僕は独身だったから呼ばれなかったんですが、その席で三船さんが酔っぱらってね、幸子さんを殴ったか何かしたのかな。そしたら、田崎さんが怒って。
「三船、お前女房を殴るなんて最低だな!」
って。で三船さんはそれを聞いて一人で帰っちゃたんです。
自宅に帰って、しばらくは我慢していたんだろうけど、どうにも我慢できなくなって、ピストルを持って、愛車を走らせ、「田崎出てこい!」と怒鳴って、発砲した、というような話ですね。
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殺陣師の宇仁貫三の証言
殺陣師の宇仁貫三は、もっぱら後始末の要員として活躍したという。
三船さんが酔っぱらって暴れたりしたときは、僕に「ちょっと、何人か連れて部屋をかたずけにきてくれよ」と頼まれました。
それで、成城のご自宅に伺ったことがありますが、日本刀を振り回したらしくて、柱は刀の刃で削れてるし、ピアノは変形してたし。もう部屋中がバラバラというか、かなり暴れた後が残っていたんです。僕なんかは、ピアノがもったいないと思いましたけど。
僕は酒は飲まないですし、三船さんに殴られたことは一度もありません。
暴れる三船 目撃証言
実際に暴れた三船を目撃している人がいた。
三船プロの元社員の中沢敏明氏。現在は映像制作会社の社長さんをしている。
三船がミュンヘンに開いた『レストラン・ミフネ』で、三船が実際に暴れているのを目撃したという。
社長は口癖は『ガッデム!』でね、どこかのアメリカあたりえ覚えてきたんでしょう。酔いが回るとよく怒っておられました。
怒るときは凄く迫力のある声だから。映画の『赤ひげ』と同じぐらいの声をだすんですから、周囲にいる人が飛び上るほどでした。
実際、レストランで食事していたお客さんをみんな追い出したこともありました。
でも、社長は怒ったときに姿もまた恰好いいんです。いつもタバコを加えていて、あんなにもタバコが似合う人はいないと思うくらいかっこよかった。
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右腕だった田中壽一氏の証言
酒乱のエピソードでもっとも詳しいのが元船プロ専務の田中壽一氏。
三船が黒澤監督と稲垣監督との間を行き来しながら撮影していた時期は相当ストレスを抱えながらやっていた模様だ。
黒澤さんというは、何度もリハーサルしを繰り返して、テストを重ね、現場で一言もセリフを変えることがなかった。
どころが稲垣さんは良く言えば柔軟というか、現場で思いついたことを採用していく。三船さんはこれが嫌だったんです。
三船は撮影前にきっちり台本を覚えて、現場には台本を持たずに現れる人だったから、急な変更はやはりストレスを感じたのでしょう。
三船さんの自宅から、稲垣さんの自宅まで、歩いて100メートルほどの距離だったんです。だから酒を飲むと、時には刀を持って「バカヤロウ!」と怒鳴って歩いて回ったり。
黒澤さんもやられたけど、稲垣さんの方が多かったですね。
黒澤監督の『用心棒』の時は、三船さんは普段絶対に現場に遅れないし、他のスタッフよりも早く入る人なんですが、一日だけ、5分ほど遅れた時がありました。
その日は黒澤さんもたまたま機嫌が悪かったんでしょう。「三船くん、今何時だ!」と怒ったんです。
その晩です、あとでマスコミに酒乱の三船と書かれたのは。酔った三船さんが、オープンカーに乗って、黒澤家のまわりを叫びながら走り回ったのを、近所の人が目撃して喋ったんですね。
翌日、三船はきっちり一時間前に現場入りし、支度を終えて黒澤監督の到着を待ったという。
次の日も次の日もそれを続けたため、他の俳優たちも早めにやってくるようになった。
脚本家橋下忍の見解
最後に脚本家の橋下忍の見解をご紹介しておきましょう。
この意見が全てではないでしょうか。全てひっくるめて、名優三船敏郎なのですから。
生まれついての潔癖性、極端なまでの几帳面さ、それらは一見暴走とも見える、表面上の一本気、直情経行、豪放磊落の反対側にあり、それらを土台から支える極端なまでの潔癖、真面目、律儀、几帳面さが三船敏郎には存在する。
この常人には見られない幅の広さ、大きさ、想像を絶する心奥の極点の飛躍的な距離、その最極端と最極端にあるものとの釣り合い、合致しにくいそのバランスを自分自身で操るところに、三船ちゃんの力強い光彩と陰影の演技があるのです。
その最極端の一面にのみのブレーキなどに何の意味があるだろうか…
このページの参考文献
※ サムライ 評伝 三船敏郎(文集文庫)
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1920年(大正9年)、4月1日、中国山東省青島に三船家の長男として生まれる。父の徳造は秋田県出身で、中国に渡り、青島、泰天、天津あたりに店舗を構えて「スター写真館」という写真店をやったいたという。日露戦争では、従軍カメラマンをやったという父。幼い頃から大連で家業を手伝い、写真技術に詳しくなった。大...
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