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『レッド・サン』のオファー経緯
三船プロを立ち上げてからの三船敏郎は、会社の大黒柱として、いろいろな作品に精力的な働かざるをえない状況であった。
時代は映画からテレビへとシフトチェンジに移っており、国内での映画オファーや、三船プロの売り上げも伸び悩んでいたが、三船には海外からのオファーが絶えなかった。
企画はかなりの数があったが、比較的にスムーズに実現したのは、フランス、イタリア、スペイン共同製作の『レッド・サン』である。
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監督は三船が選んだ?!
主演は三船の他にチャールズ・ブロンソン、アラン・ドロン、女優はウルスラ・アンドレスなどのスターが並ぶ大作だ。
この映画について、三船の右腕だった田中壽一氏が語るエピソードを紹介します。
『レッド・サン』の企画で三船さんとアメリカへ行き、プロデューサーに「明日お茶を飲みましょう」と誘われてか出かけたら、部屋の丸いテーブルを囲んで座っていたのが、エリア・カザン、サム・ペキンパー、テレンス・ヤングだったんですよ。
それでプロデューサーに「トシロー、この中から監督を選びなさい」と言われたんです。
私はもう顔ぶれにびっくりしました。三船さんは「いや、ここでは誰とは言えないから、明日にでも返事をしましょう」と答えて監督たちと別れました。
その時に、テレンス・ヤングだけが、三船さんに「あなたに逢えて幸せでした」という挨拶をしていました。
加えてテレンス・ヤングは、ちょうど『007』の撮影を終えた後で、『レッド・サン』のシナリオを読んで、企画に積極的だったとのことで、「それじゃテレンス・ヤングで」ということになりました。
アラン・ドロンの配役
配役については、三船のほかにチャールズ・ブロンソンは決定していたが、あとの一人は未定だった。田中は「日本とアメリカの俳優が共演してるし、それ以外の組み合わせなら、ヨーロッパの俳優はどうですか」と提案したという。
アラン・ドロンは『太陽がいっぱい』が公開されたあと、日本でも大人気となっていたので、彼に決まった。
「このアラン・ドロンを配役したことが、三船プロにとってとっても幸運だったんです。ダーバンのCM製作に繋がっていったわけですからね」
『レッド・サン』は、西部劇に日本の侍が初めて登場した映画である。日米修好の任務の為にアメリカからやってきた日本国大使一行が乗った列車が、強盗団に襲われ、ミカドから大統領へ献上する宝刀が盗まれる。
それを取り戻すだけに三船が演じる黒田十兵衛が強盗団を追いかけるというストーリーだ。
強盗団のボスがアラン・ドロン。そして三船と組む相棒がチャールズ・ブロンソン。この2人のスターを前にして、三船はまったく見劣りしることがなかった。
本来ならおかしな感じに映る着物姿が、凛々しく清潔で、佇まいも美しい。逆にウエスタンスタイルのブロンソンが薄汚れて見える。
また馬に跨って荒野を疾走し、刀やシュリケン、弓などを駆使して戦う三船のアクションは、銃だけを武器にして戦う男が間抜けに見えるほどだ。
この時三船は50歳。崖を駆け降りるシーンも吹き替えなしで演じていた。
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三船とアラン・ドロン
この作品に出演したアラン・ドロンは、三船敏郎という俳優に魅せられ、のちに三船をイメージした香水『サムライ』という香水ブランドまで作っている。
2人の交友関係は長く、三船が亡くなるまで続いた。
問題があったとすれば、ドロンが三船の女性関係に影響を与えたことである。
ドロンには当時ナタリー・ドロンという女優の妻がいたが、同じく女優のミレーユ・ダルクを公然のい愛人として交際を続けていた。
フランスでは愛人の存在は日本ほど強い避難を受けない。
アラン・ドロンの真似をしたのかどうか、『レッド・サン』の撮影中、三船はスペインロケに銀座のホステスの愛人を同行させた。
そのことが日本のマスコミに伝わり、騒ぎが大きくなると、三船プロは急遽ホステスを帰国させ、幸子夫人をロケ地へ送った。
夫人が和食を手作りして出演者たちに振舞う、いわば陣中見舞いというのが表向きの理由だった。
撮影を終えて帰国するときは夫婦2人であったが、空港にはマスコミが集まっていた。
記者が三船に質問を浴びせかけると、彼は大声で一喝、
「留守中に人の便所を覗くような真似はよせ!」
このとき、空港まで三船を迎えにきた社員は「社長がまたやってしまった」と思い、がっくりしたという。
普段はそんな人ではないのに、マスコミに煽られ、芝居がかった大声を上げてしまったからである。
銀幕スターのすばらしさ
田中壽一氏は、当時スターがどれほどの注目を浴びる存在だったのかを懐かしく回想する。
三船プロ10周年の時には、帝国ホテルでパーティを開いたんですけど、ドロンが来日してきてくれて、羽田空港が5000人のファンで身動きができないほどになりました。
私はその時に多くの女優さんたちに恨まれましたよ。「私はアラン・ドロンの大ファンなのに、どうしてパーティに招待してくれなかったの」って。
また田上淳司は、日比谷の映画館で行われた特別試写会での光景が忘れられないと話す。
日比谷の警察署が車両規制しえくれたおかげで、映画館近辺の道路がきれいに空いていたんです。その中を三船さんのロールス・ロイスが走り、アラン・ドロンと2人で車から降りてきたときの歓声といったら凄かった。僕はその時、映画ってなんて凄いんだろうと思いました。
このページの参考文献
※ サムライ 評伝 三船敏郎(文集文庫)


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