映画界入りした黒澤明 〜P・C・L映画製作所(後の東宝)に見事合格

映画界入りした黒澤

画家を一生の仕事をしていくことに自信を失くしていた黒澤。
そのころの心境を自伝「蝦蟇の油」でこう語っている。

 

3年間私には、特にこれという出来事はなかった。
兄の自殺と前後して、音信普通だった長兄の病死の報があり、私の家の男は私一人になってしまったのだから、なにか長男のような責任を感じ始めていた。

 

若いときは自己顕示欲が強すぎて、かえって本当の自分を見失う者が多い。
私もその例にもれず、無理な細工をして絵を描いては自己嫌悪を感じて、次第に自分の才能に自信を失い、画を描くこと自体が苦痛になってきた。

 

その頃から、私は何か他の仕事をやることを考え始める。その心の底には、何でもいいからなにかの仕事についてとにかく父や母を安心させたい、という気持ちがあった。

 

黒澤明 蝦蟇の油より

 

生きる手立てを模索してあがく黒澤に父・勇は、
「焦るな。あせることはない。焦らずに待てばおのずと道は開かれる」
と応援する。

 

黒澤は画業に見切りをつけ、新聞広告で見たP・C・L映画製作所(後の東宝映画株式会社)の助監督に応募。面接では後に師と仰ぐ山本嘉次郎と絵画について気が合って長話になる。
彼の目に留まってか、見事100倍の狭き門を突破して入社。

 

ここで注目したいのは、映画界なんてやはり当時でも誰もが簡単に足を踏み入れることが出来なかった業界だったんですね。
100倍の競争率に受かっているという現実は、話が合った山本嘉次郎が面接官だったというラッキーもあり、やはり強い運をもっていたのでしょうね。

 

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助監督時代は武闘派だった

しかしP・C・Lから採用通知が来た後でも、まだ画家をあきらめきれずに迷っている彼に父は、
「いやなら何時でもやめればいい。しかし、何事も経験だ。一ヶ月でも一週間でもいいから、行ってみたらどうだ。」※1とアドバイスをおくったという。

 

そんなアドバイスもあってか、黒澤はP・C・L映画製作所の助監督として、その華々しい映画人キャリアをスタートさせた。

 

映画という若々しい文化に対して、当時の若者たちの熱狂が、静かなうねりを上げていた時代である。

 

当時P・C・Lでは助監督は「製作主任」と呼ばれ、会社の方針として映画製作に必要な部門すべての仕事に助監督を触れさせようと試みた。

 

作品の演出補佐はもとより、製作進行、現像、大道具、シナリオ、編集、会計までも総括する立場だった。

 

「製作主任の命令は社長命令に等しい」というハリウッド流の映画製作を社長が打ち立てる中で、各部門からの助監督への風当たりは厳しい。

 

それに対して、黒澤は腰にトンカチと釘袋をぶらさげて、「文句があるなら現像場の裏へ来い」と武闘派として渡り合ったという。

 

黒澤明 P・C・L映画製作所

 

芸術を創るというアーティスティックな感覚と平行して、現場での体育会系の威圧感というか、舐められたら負け的な仕事観は強く持っていたのかもしれません。
その威圧感を持っていたことが、のちに天皇と呼ばれた所以なのかもしれません。

 

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脚注
※1 文藝春秋発行 小林信彦著書 「黒澤明という時代」より抜粋

 

 

 

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