1910年(明治43年) |
3月23日、東京府に生まれる。 父・勇(45歳)、母・シマ(40歳)の間の四男四女の末っ子である。
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1916年(大5) 6歳 |
森村小学校に入学。 |
1917年(大6) 7歳 |
小石川区西江戸川町へ転居。黒田尋常小学校へ転校。 |
1918年(大7) 8歳 |
立川誠治先生が担任となり絵に興味を持つ。 同級製で後に脚本家になる植草圭之助と知り合い親しくなる。
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1919年(大8) 9歳 |
姉・百代病死(享年16歳) |
1920年(大9) 10歳 |
この頃から剣道や書道を習いはじめたり、父たちと映画や寄席を見に行くようになる。 |
1922年(大10) 12歳 |
京華中学に入学する。 |
1923年(大12) 13歳 |
関東大震災に遭遇する。兄・丙午に連れられ下町を巡り死屍累々の地獄を見る。 |
1924年(大13) 14歳 |
京華高友会誌に載った作文は国語の小原要逸先生に創設以来の名文と誉められる。 |
1927年(昭2) 17歳 |
京華中学卒業。画家を志す。 |
1928年(昭3) 18歳 |
9月、第15回二科展入選。油絵「静物」。 |
1929年(昭4) 19歳 |
第2回プロレタリア美術大展覧会出品。 |
1930年(昭5) 20歳 |
4月、徴兵司令官の好意により、兵役免除になる。 |
1933年(昭8) 23歳 |
7月、兄・丙午自殺(享年27歳) 音信不通だった長兄・昌康病死。 |
1934年(昭9) 24歳 |
この頃、画家への才能に疑問を抱き黒澤家に残った男子として他の仕事を考え始める。 |
1936年(昭11) 26歳 |
4月、P・C・Lに助監督として入社。映画の師、山本嘉次郎とめぐり会う。 |
1939年(昭14) 29歳 |
山本嘉次郎監督「馬」でB班監督をつとめる。 |
1941年(昭16) 31歳 |
シナリオ「達磨寺のドイツ人」が「映画評論」に掲載。 |
1942年(昭17) 32歳 |
シナリオ「姿三四郎」執筆。 |
1943年(昭18) 33歳 |
3月、初監督作品「姿三四郎」公開。 |
1944年(昭19) 34歳 |
4月、第2作「一番美しく」公開。 |
1945年(昭20) 35歳 |
月、第3作「続姿三四郎」公開。5月、加藤喜代(女優矢口陽子)と結婚。第4作「虎の尾を踏む男たち」は公開禁止となる。12月、長男・久雄誕生。 |
1946年(昭21) 36歳 |
10月、第5作「わが青春に悔なし」公開。 |
1947年(昭22) 37歳 |
6月、第6作「素晴らしき日曜日」公開。 |
1948年(昭23) 38歳 |
2月、父・勇死去。 |
1949年(昭24) 39歳 |
3月、第8作「静かなる決闘」公開。10月、第9作「野良犬」公開。 |
1950年(昭25) 40歳 |
4月、第10作「醜聞」公開。 |
1951年(昭26) 41歳 |
5月、第12作「白痴」公開。9月、「羅生門」がベネチア国際映画祭金獅子賞受賞。 |
1952年(昭27) 42歳 |
3月、「羅生門」が第24回アカデミー賞特別賞を受賞。4月、公開禁止となった第4作「虎の尾を踏む男達」公開。10月、第13作「生きる」公開。11月、母・シマ死去。 |
1954年(昭29) 44歳 |
4月、第14作「七人の侍」公開。長女・和子誕生。6月「生きる」がベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞。 |
1955年(昭30) 45歳 |
11月、第15作「生きものの記録」公開。 |
1957年(昭32) 47歳 |
1月、第16作「蜘蛛巣城」公開。9月、第17作「どん底」公開。 |
1958年(昭33) 48歳 |
12月、第18作「隠し砦の三悪人」公開。 |
1959年(昭34) 49歳 |
4月、黒澤プロダクション発足。 |
1960年(昭35) 50歳 |
9月、第19作「悪い奴ほどよく眠る」公開。 |
1961年(昭36) 51歳 |
4月、第20作「用心棒」公開。 |
1962年(昭37) 52歳 |
1月、第21作「椿三十郎」公開。 |
1963年(昭38) 53歳 |
3月、第22作「天国と地獄」公開。 |
1965年(昭40) 55歳 |
4月、第23作「赤ひげ」公開。 |
1969年(昭44) 59歳 |
20世紀フォックスとの合作映画「トラ!トラ!トラ!」がトラブルにより撮影継続を断念。 |
1970年(昭45) 60歳 |
10月、第24作「どですかでん」公開。 |
1971年(昭46) 61歳 |
12月、自殺を図る。 |
1974年(昭49) 64歳 |
9月、山本嘉次郎監督死去(享年72) |
1975年(昭50) 65歳 |
8月、第25作「デルス・ウザーラ」公開。モスクワ映画祭金賞を受賞。 |
1976年(昭51) 66歳 |
3月、「デルス・ウザーラ」が第48回アカデミー賞最優秀外国語映画賞を受賞。 |
1980年(昭55) 70歳 |
4月、第26作「影武者」公開。5月「影武者」がカンヌ映画祭グランプリを受賞。 |
1982年(昭57) 72歳 |
9月、ベネチア国際映画祭創立50周年記念「獅子の中の獅子」に「羅生門」が選ばれる。 |
1983年(昭58) 73歳 |
11月、黒澤フィルムスタジオ完成。 |
1985年(昭60) 75歳 |
2月、妻・喜代死去。6月、第27作「乱」公開。 |
1986年(昭61) 76歳 |
3月、第58回アカデミー賞で「乱」の衣装担当のワダエミが「衣装デザイン賞」を受賞。 |
1990年(平2) 80歳 |
3月、第62回アカデミー賞で名誉賞を受賞。5月、第28作「夢」公開。 |
1991年(平3) 81歳 |
5月、第29作「八月の狂詩曲」公開。 |
1993年(平5) 83歳 |
4月、第30作「まあだだよ」公開。 |
1995年(平7) 85歳 |
3月、次回予定の「海は見ていた」は、洪水シーンの規模が大きく断念。新たなシナリオ「雨あがる」を執筆中に倒れる。 |
1998年(平10) 88歳 |
9月6日午後0時45分、永眠。 |
1999年(平11) |
9月「雨あがる」がベネチア国際映画祭で追悼上映され緑の獅子賞を受賞。 |
2000年(平12) |
1月、「雨あがる」公開。監督は小泉暁史。 |
2002年(平14) |
7月、「海はみていた」公開。監督は熊井啓。 |
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絵画に目覚めた少年時代1910年、父・勇と母・シマの4男4女の末っ子として東京都に生誕。父は現在の日本体育大学の理事をしていた。1916年、財界人や有名人の子弟が多かった森村学園の付属幼稚園に入園。しかし数年後、父・勇が仕事での不正を追求され、理事を退く。私立の森村学園から公立の黒田尋常小学校に転校...
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画家を一生の仕事をしていくことに自信を失くしていた黒澤。そのころの心境を自伝「蝦蟇の油」でこう語っている。3年間私には、特にこれという出来事はなかった。兄の自殺と前後して、音信普通だった長兄の病死の報があり、私の家の男は私一人になってしまったのだから、なにか長男のような責任を感じ始めていた。若いとき...
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黒澤は入社早々サード助監督として矢倉茂雄監督の「処女花園」についた。この一本で黒澤は映画作りが嫌になり、早々と退社することを考えたが、周囲になだめられて思いとどまったらしい。そのあと2作目についたのが、面接時に意気投合した山本嘉次郎監督の「エノケンの千万長者」。この一作で黒澤は映画作りにやりがいを感...
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姿三四郎富田常雄原作の小説「姿三四郎」の新聞広告を見て黒澤は「これだ」と直感的に思い、読みもしていないのに企画部長のところへ駆け込むが、とにかく読んでからということになって、その日の夕方に書店で買って読むとやはりおもしろいということで、さっそく東宝が映画化のオファーを出したという。この後、一日遅れで...
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酔いどれ天使次の作品、「酔いどれ天使」で三船敏郎がはじめて黒澤作品に登場する。この「酔いどれ天使」はその当時の若者におおきな影響を与え、街のやくざ、チンピラは三船の劇中でのスタイルを真似た。酔いどれ天使は毎日映画コンクールの日本映画大賞に選ばれこの年のキネマ旬報のベスト1にも輝く。三船は映画界に入る...
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静かなる決闘東宝を離れた黒澤は、1949年、大映で「静かなる決闘」を製作。ストライキ中に作った「映画芸術協会」の協会第一作目となった。前作「酔いどれ天使」で三船が演じたやくざは彼が持つ魅力にはまり当たり役となったが、本作では誠実なインテリの医者役を三船に振り当てた。黒澤の兼ねてからの主張である、「前...
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羅生門1950年、大映で「羅生門」を製作。芥川龍之介の小説「羅生門」と「籔の中」をベースに橋本忍との共作で脚本を仕上がる。元は橋本が持っていた脚本「雌雄」が原型。撮影は黒澤の希望で大映のキャメラマン宮川一夫が担当する。当時はフィルムが焼けるとしてタブーとされていた太陽に直接カメラを向けるという撮影を...
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白痴1951年、ドストエフスキー原作の「白痴」を松竹で製作、公開。松竹との間では前後編2部作で4時間半に及ぶ大作として、契約が交わされてたはずであったが、いざ完成すると、暗いだの長いだの難癖をつけて、結局2時間46分に短縮されて上映された。今日だったら裁判沙汰であろうエピソードだが、当時は泣く泣く受...
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1954年、1年以上の製作期間と2億1千万円というと当時の通常の7倍ほどの破格の制作費をかけて作された「七人の侍」が公開される。アメリカの西部劇が大好きな黒澤が作った日本版西部劇ともいえる。「だいたい日本映画にはコッテリとした、たっぷり栄養のある娯楽作が少ない。この辺でそういう味の満喫できるものを作...
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賛否両論「生きものの記録」1955年、原水爆の恐怖を描いた「生きものの記録」を製作。核兵器の恐怖に狂っていく老人を主人公にしたドラマである。志村喬が演じるかと思いきや、主人公の老人は35歳の三船敏郎に振り当てられた。三船の老け役はちょっと無理があるように思われたが、生気あふれ、次第に狂っていく老人を...
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隠し砦の三悪人1958年、娯楽時代劇の傑作「隠し砦の三悪人」を製作。黒澤作品初のスコープサイズでの作品。理屈なしの徹底的に娯楽を追及した大活劇である。第9回ベルリン国際映画祭では監督賞を受賞、日本国内でも大ヒットを記録した。ジョージ・ルーカスの代表作「スターウォーズ」は「隠し砦の三悪人」からアイデア...
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名作「用心棒」1961年、これが外れれば黒澤プロも終わりという中で、時代劇の傑作「用心棒」をドロップ。「用心棒」は大ヒットし、ヴェネツィア国際映画祭では三船敏郎が主演男優賞を受賞。黒澤プロダクションはこの作品で名声とともに経済的にも大きな成果をあげた。後にセルジオ・レオーネ監督、クリント・イーストウ...
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推理映画の傑作「天国と地獄」誘拐をかねてから恐れていたという黒澤が、たまたま読んだというエドマクべインの小説「キングの身代金」にインスパイアされ製作したのが、1963年公開の「天国と地獄」である。長男の久雄は当時17歳で誘拐の恐れはないが、長女の和子は8才と幼く有名人子弟の営利誘拐の可能性は否定でき...
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1960年、黒澤は日本オリンピック組織委員会から、4年後の東京オリンピック公式記録映画の総監督をお願いしたいとオファーを受ける。東宝の森岩雄の勧めもあり、黒澤をこれを引き受ける。ローマオリンピックへ下見に行き、綿密な計画を立てて黒澤が出した試算は約5億円であった。今でいうと20億円ぐらいだろうか。こ...
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日本映画界で頂点を極め、世界でも指折りの監督となった黒澤明。しかし彼が描く映画のスケールは日本の映画界では実現困難な時代となっていた。いよいよ世界へ出ていくより道が無くなった黒澤。「赤ひげ」が公開された後、黒澤は東宝と手を切りたいと考えており、もうすぐ切れる東宝との専属契約は更新しない考えであった。...
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「暴走機関車」の企画が迷走していたころ、20世紀フォックスのプロデューサー、エルモ・ウイリアムスが「トラ・トラ・トラ!」の企画を黒澤プロに打診していた。日米開戦のきっかけである「真珠湾攻撃」を題材にした映画。トラ・トラ・トラとは「真珠湾攻撃に成功した」という日本軍のモールス信号である。黒澤ファンのエ...
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照明器具落下事件12月4日、プロデューサーのエルモは9時に撮影所入り。スタッフは準備に余念がない。しかし黒澤はまだ来ていない。彼は前夜から今朝まで酒を飲み続け、睡眠薬も服用。現場に現れたと思ったら機嫌が悪く、カリカリしていてスタッフを怒鳴りつける。スタッフは対応に戸惑う。今日も現場を見学しようと午前...
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京都を離れ、ハワイ真珠湾の撮影現場に戻ったエルモ・ウイリアムズは、この映画の正念場とも言うべき戦闘場面の撮影準備の大詰めに追われていた。ところが、京都にいる製作主任からはトラブルの報告が続く。エルモは苛立つ。ハワイの撮影は文字通り命がけ。改造したゼロ戦編隊を生身のパイロットが飛ばし、米海軍から借りた...
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エルモの再来日と黒澤の自滅撮影現場の混乱が収まらない!と、エルモに連絡を入れ続ける現場責任者のスタンリー。それを受けて一度は監督降板の覚悟を決めつつ、エルモ自身が京都にやってくる。現場で聞こえてくるのは黒澤の奇行、体調を崩しての撮影中断、「果たし状事件」「ヘルメット・ガードマン事件」など、コントのネ...
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12月22日、黒澤はエルモを撮影現場に呼ぶ。ステージ入り口からセットまで赤じゅうたんが敷かれ、ファンファーレが鳴り、スタッフは直立不動で、エルモを迎えた。キャメラ脇の椅子までエスコートされたエルモは黒澤に、「ヘルメットを着用してください。照明器具が落ちてくるかもしれません。」と言われる。その途端、天...
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「トラ・トラ・トラ!」の解任で大きなダメージを受けた黒澤は、アメリカ映画に頼らず、日本で映画を作る道を選ぶ。日本映画界の精鋭を結集して力を合わせて日本映画を復興させる。まずはお金の掛からない低予算で映画を作ろうというコンセプトで、木下恵介、市川崑、小林正樹らに呼びかけ「四騎の会」という芸術家集団を結...
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影武者ソ連に渡って制作した「デルス・ウザーラ」は世界中で評価され、復活の足掛かりをつかんだ黒澤は、次に壮大な戦国ピカレスクロマン大作「乱」を企画するが、制作費があまりにも巨額ということで、前哨戦として「影武者」を撮ることになった。「影武者」>もまた予算が確保できず、制作が難航したが、黒澤を敬愛する「...
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1910年(明治43年)3月23日、東京府に生まれる。父・勇(45歳)、母・シマ(40歳)の間の四男四女の末っ子である。1916年(大5) 6歳森村小学校に入学。1917年(大6) 7歳小石川区西江戸川町へ転居。黒田尋常小学校へ転校。1918年(大7) 8歳立川誠治先生が担任となり絵に興味を持つ。同...
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