黒澤明 助監督時代 〜山本嘉次郎に学び、高峰秀子とは恋仲に〜

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山本嘉次郎との出会い

黒澤逃げる

 

黒澤は入社早々サード助監督として矢倉茂雄監督の「処女花園」についた。この一本で黒澤は映画作りが嫌になり、早々と退社することを考えたが、周囲になだめられて思いとどまったらしい。

 

そのあと2作目についたのが、面接時に意気投合した山本嘉次郎監督の「エノケンの千万長者」。この一作で黒澤は映画作りにやりがいを感じ、先輩とも親しくなっていった。

 

山本はスタッフを差別することなく、どんな下っ端の言うことにも耳を傾け、よければすぐ採用するという柔軟な人格者だった。

 

自分の権力を笠に着ることもなく気さくで「物知り博士」と呼ばれ、相当な知識の持ち主でもあったが、それが嫌味にもならない人であった。

 

黒澤は、これからも山本組でやりたいと思い、製作主任、委員の了承を得て以後は、山本組につくことになる。

 

黒澤は早々と山本組の製作主任を任され、「藤十郎の恋」「綴方教室」「エノケンのがっちり時代」「忠臣蔵(後編)」などのチーフ助監督を務めていき、将来の監督と注目されていく。

 

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山本は現場では強い言葉でスタッフを指示することはなかったが、シナリオでは容赦なく叱られたらしい。それが勉強になったと黒澤は語る。

 

「喜劇は科学。シリアスドドラマは物理学だ」という言葉は黒澤の言葉として取り上げられているが、山本の言葉である。

 

大女優・高峰秀子が山本監督、山本組について、エッセイ「わたしの渡世日記」でこう語っている。

 

演出家、山本嘉次郎は中味は最高級の三盆白で味付けした、まじりっけなしのアンコであった。
会社はもちろん、スタッフや俳優の信望も厚く、すべての人が一目置いていたけど、呼び名は「先生」ではなく、「山さん」という愛称で呼ばれていた。
私はそのことにもビックリした。良くいえば厳しく、悪くいえば封建的な松竹育ちの私はもちろん「山さん」ではなく、「山本先生」と呼んだが、呼ばれた本人の一瞬キョトンとした表情がいまでも懐かしく思い出される。※2

 

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高峰秀子との恋

黒澤明 高峰秀子

 

このころ黒澤は山本監督の「馬」の撮影を通じて高峰秀子と恋仲になるが、高峰の母親に「助監督風情に娘はやれない」といわれ結局破談に至った。

 

これは新聞報道がきっかけだったが、この報道は当時俳優課長だった平尾という男が流したとされており、黒澤はこの平尾を嫌ったという。

 

2013年に行われた映画雑誌「キネマ旬報」を発行するキネマ旬報社のアンケート企画、「オールタイムベスト・日本映画男優・女優」で女優1位は高峰秀子であり、現代でも評価が衰えない日本映画史に残る大女優である。

 

この頃彼女はまだ17歳で天才子役から大女優に駆け上がる道中。
そんな類まれなる才能を持った少女が、初恋の相手に選んだのが、助監督黒澤明。彼もまたのちに世界的映画監督になる夜明け前。
超一流の人間同士のシンパシーみたいなものがあったのでしょうか。

 

 

 

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また黒澤の弟子である堀川弘通氏は著書でこう語っている。

高峰秀子がある日、その日に限って演技がしどろもどろで、ついには撮影を中止したことがある。

 

というのは、山さん(山本監督)の妹とクロさん(黒澤)は、かねてから噂があった仲だが、その日その妹が、たまたま撮影見学に来たことで騒動は始まった。
デコちゃん(高峰)がすねて芝居にならないのである。

 

スタッフも奇妙な顔をするし、監督も困惑。クロさんもついに「今日の撮影は中止」と宣言した。
ということは、デコちゃんは2人の仲を疑って嫉妬したのである。
デコちゃんはそれほど思いつめていたのである。

 

デコちゃんとクロさんの仲が公然化するのは時間の問題だった。

 

クロさんが女性たちに人気があるのは当たり前だった。長身、ルックス、どれを取っても文句なし。
その上仕事でも「馬」が完成したら、次は監督昇進と自他ともに認めるところだった。※3

 

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脚注
※2 やのまん発行 塩澤幸登著書 「黒澤明 大好き!」より抜粋
※3 毎日新聞社発行 堀川弘通著書 「評伝 黒澤明」より抜粋

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