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スタープロダクションの誕生
日本の映画市場は、テレビの出現によって1958年(昭和33年)をピークにして、斜陽産業になっていく。
テレビだけではなく、娯楽の多様化も相まって、5年後には観客数が半減してしまい、映画産業自体が危機を迎える。
大手プロダクションは事業規模を縮小せざる負えない状況であった。東宝はまず黒澤明に独立させると、今度は三船を独立させる。
東宝から独立した三船を追うように、各プロダクションのスター達がそれぞれ個人プロダクションを作りはじめた。
大映の勝新太郎は勝プロ、
日活の石原裕次郎は石原プロ、
東映の中村錦之助は中村プロを設立し、4大スタープロダクションが生まれた。
黒澤明は三船は社長業は向いていないと考えており、
「三船君のあの性格じゃみんなに気を遣って、神経をすり減らしてダメになるぞ」と漏らしていた。
谷口千吉監督は三船に直で話した。
「正直反対だよ。三船ちゃんはのんびりこのまま歳を重ねて、ある時期がきたら渋くて味のある老け役をやってほしい」
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三船敏郎初監督『五十万人の遺産』
三船プロの記念すべき第一回作品は『五十万人の遺産』というスケール感抜群のアクションドラマ。
脚本は『用心棒』の菊島隆三、そして監督は三船敏郎。
そのほか撮影は斎藤孝雄、美術は村木与四郎など、黒澤組で固められており、編集は黒澤明も手伝った。
三船は演出は無理と断ったみたいだが、東宝の重役に言いくるめられて、メガホンを取った。もちろん主役は自身三船敏郎。
いろいろな人の証言をまとめると、三船は100%映画監督には向いてないということが分かった。
黒澤明、谷口千吉、スクリプターの野上照代の著書でもはっきりと記されている。
三船さんが監督を名乗ったのは後にも先にもこれ一本だったが、あの恥ずかしがり屋の三船さんが自分から言い出したとは思えない。東宝の藤本真澄あたりに煽てられて断れず引き受けてしまったのだろう。
しかし、周りに人一倍気を配る三船は、スタッフの仕事を増やしてはいけないと気遣ってカット数を減らしたり、自分のアップをあまり撮らなかったりしたため、黒澤が「これじゃ編集できないよ」と言って何度も取り直しをさせたという。
※野上照代著書 もう一度天気待ち より引用
監督業に手こずった三船であったが、作品はヒットを記録し、三船プロダクションは幸先の良いスタートを切った。
この映画は宝塚で撮影をしたので、結果、三船の女関係の乱れをもたらすきっかけになってしまった作品だと、三船プロ専務の田中寿一は語っている。
その時に関係を持った女を三船は東京にまで呼んで囲っていたという。しかしこれが奥さんにバレて、田中が奥さんから怒られることになったという。
「三船さんは女遊びが下手なんですよ。遊びで済ませられないんです。」
女性にたいして、遊びで終わらせることが出来ないというか、その感覚を持てない人であったのでしょう。情が深い故に、妻子がいるにも拘わらず、面倒をみてしまう。三船のやさしさがダメな方向に出たケースでしょう。
専用撮影所を持つ個人プロダクション
三船は1966年(昭和41年)、世田谷区成城に2000坪の土地を買い、3つのスタジオとオープンセットからなる撮影所を作る。
これは個人プロダクションではありえないことで、他のスタープロダクションはせいぜいマネージャーと事務員で構成されているだけの会社。全然規模が違う次元に差しかかっていた。
三船はこのころハリウッド映画『グランプリ』に出演。この出演ギャランティを使って撮影所の機材を購入し、より良い撮影現場にするための投資は惜しまなかった。
ロスでは三船が撮影機材の展示会で、2000万円弱をキャッシュで払って購入したことが、ニュースになったという。
このページの参考文献
※ サムライ 評伝 三船敏郎(文集文庫)


三船敏郎 「男の癖にツラで飯食うなんてイヤです!」 元々は撮影部希望だった!
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