三船敏郎 「男の癖にツラで飯食うなんてイヤです!」 元々は撮影部希望だった!

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三船敏郎 幼少期〜戦後

1920年(大正9年)、4月1日、中国山東省青島に三船家の長男として生まれる。

 

父の徳造は秋田県出身で、中国に渡り、青島、泰天、天津あたりに店舗を構えて「スター写真館」という写真店をやったいたという。

 

日露戦争では、従軍カメラマンをやったという父。

 

幼い頃から大連で家業を手伝い、写真技術に詳しくなった。大連では外国人と接することが多かったという三船。この経験が外人や外国コンプレックスに無縁な三船敏郎を作りあげたのかもしれない。

 

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大日本帝国陸軍入隊

20歳で軍隊召集。陸軍第七航空教育隊へ入隊。

 

実家が写真屋ということで、航空写真班に回された三船。上官に家族の写真を撮ってくれと頼まれて、撮ったところ、「三船は写真の技術は優秀である。教育隊に残れ」と言われる。

 

仲間はみんな戦地へ行って帰って来なかったという。

 

「最初は写真なんか嫌だと思って親父を恨んでいたけど、写真をやっていたおかげで今まで生きているわけです。」と後に語ったという。

 

戦場のピアニストまではいかなくとも、「芸は身を助ける」といったところか。

 

6年間の地獄の軍隊生活

日本が敗戦間近の昭和20年。三船は熊本で少年航空隊の教育係だったという。つまりは特攻隊を送り出す任務。

 

機関銃の打ち方を教える。遺影も三船が撮影。そして出陣の前の晩は御馳走を食べさせてあげて、送り出す。そして一人も帰ってこない。

 

少年兵たちには、「最後の時は天皇陛下万歳!じゃなくていいぞ。おかあちゃん!!でいいんだからな!」と話したという。

 

6年間の地獄の軍隊生活から学んだことは多いという。人への思いやり、心遣いなど、その学びを忘れずに役者としてスターになっても、人に対しては謙虚であり続けたという。

 

声変わりもしていない15、16歳の少年たちが、ボロボロの戦闘機に乗って死ににいく…。生き残っている自分が情けなく思える時もあったであろう。しかし、運命に生かされたと思い、謙虚に必死に自分の歩むべき道を歩んできたから、三船は世界的スターであったのでしょう。

 

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終戦後

敗戦後、三船は一時、横浜でアメリカ兵相手にニコヨンのような仕事をしていたが、こんなことをしていたって仕様がない!と同じ隊にいた大山年治という東宝のキャメラマンを訪ねて何か仕事はないか?と履歴書を預けたという。大山はちょうどそのころ、ニューフェイスの募集をしていたからと、そっちへ履歴書を回したという。

 

なんとも強引な話だが、撮影部はすでに定員一杯なので、ニューフェイスで受かっていれば、後で空きが出来たときに撮影部に呼ぶことができるからという理由があったらしい。

 

それで面接するから来い!という通知が三船に来たという。

 

こうして、運命の歯車は映画スターへ向かって回り始めたのである。

 

銀幕スター三船敏郎誕生

東宝ニューフェイス面接

「凄いのが一人いるんだよ。でもその男、態度が少し乱暴でね。ちょっと見に来て!」

 

「わが青春に悔いなし」の撮影中に、高峰秀子が黒澤に言ってきたという。

 

何事と思い、急いで試験場にいく黒澤。そこで若い男が荒れ狂っていたという。

 

猛獣があばれているような演技という課題を出されて演じていた三船。演技がおわると、照れ隠しからか、投げやりともとれる乱暴な態度をとるその男。

 

黒澤が振り返る。

 

「その若い男は山さん(山本嘉次郎)が極力推しているにもかかわらず、投票の結果落第と決まった。私は思わずちょっと待ってくれ。と大きな声を出した。結局、審査委員長の山さんが、問題の若い男の俳優としての素質と将来性について責任を持つという発言があったので、その男は危ういところで合格となった。この問題の若い男が三船である。」

 

東宝ニューフェイス応募総数4000人。うち合格が16人。その補欠としてかろうじて三船もニューフェイスの一員となった。

 

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合格秘話

山本嘉次郎のおかげで滑り込みで合格した三船だったが、これにはもうひとつの裏プッシュがあったという。

 

当時、撮影部の係長をしていた山田一夫は、大山から三船を紹介されたとき、一目みて、この頑丈そうな体なら撮影部でガンガン使えるぞ、と思ったらしく、最終的に撮影部が引き取るから、とりあえず採用にしておいて欲しいとの旨を、審査委員長の山本にお願いしていたという。

 

のちにスターになった三船は、プロダクションを設立した際に恩人である山田一夫をキャメラマンとして迎え入れた。
山田は「上意討ち 拝領妻始末」や「無法松の一生」「風林火山」などの名作や大ヒット作を撮影した。

 

黒澤と親友の谷口千吉は初監督作「銀嶺の果て」のキャスティングに悩んでいたある日、電車の中で胸板が厚くて、たくましくて雄の匂いがプンプンしている若い男を見かけた。

 

同乗していた東宝役員の藤本真澄に「俺はああいうのが欲しいんだよ」と言うと、藤本は「あれはうちの子だよ。ニューフェイスの養成所に通っている三船って男だ」加えてこうも言った。「あいつはヤクザみたいなやつだよ。やめといたほうがいい。面接のときにケンカには自信があるみたいなことを自慢げに話すような野郎だからな」

 

 

しかし谷口は諦めず翌日、三船に映画への出演をオファーする。

 

「男のくせに、ツラで飯を食うなんて好きじゃないです」

 

と断る三船だったが、谷口は「出演してくれたら、背広を一着作ってプレゼントするよ」と条件が提示されて承諾。

 

谷口千吉監督「銀嶺の果て」でデビュー。

 

しかし、それでも将来的には撮影部に行くつもりでいた三船。ロケでも誰に頼まれたわけでもないのに50キロもある三脚やバッテリーなんかを担いでよく歩いていたという。

 

谷口によると黒澤は三船の起用に反対だったという。最初の大事な作品なのに、博打のようなキャスティングだぜと。

 

しかし撮影が進むと黒澤も見る目を変えたという。

 

「千ちゃん三船はいいなぁ。次は俺に貸してくれよ」

 

 

翌年、黒澤明監督の「酔いどれ天使」で演じたやくざ役が大当たりし、戦後のスター俳優の地位を不動のものにした三船。この状況ではいくら三船が撮影部に行きたいといったところで不可能な状況になってしまっていた。

 

このページの参考文献
※ サムライ 評伝 三船敏郎(文集文庫)

 

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