静かなる決闘
東宝を離れた黒澤は、1949年、大映で「静かなる決闘」を製作。
ストライキ中に作った「映画芸術協会」の協会第一作目となった。
前作「酔いどれ天使」で三船が演じたやくざは彼が持つ魅力にはまり当たり役となったが、本作では誠実なインテリの医者役を三船に振り当てた。
黒澤の兼ねてからの主張である、
「前作の評判が良ければ良いほど、同じ役柄に固定しがちである。有能な人材は無限の可能性があるのだから、新しい役柄を試みてみるべきだ。」
という持論によるものであった。
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この作品から黒澤の真骨頂「ヒューマニズム」が本領発揮しだしている。苦しみ耐える、欲望と良心の葛藤、本能と理性。自分を犠牲にしてまでも他者を救うことはできるのか。
それを演じる三船敏郎の役者としての才能も凄いが、根本的な人間らしさを持った人が演出しないと、こうはならないと感じた。
その根本的な人間の器と、映画人としての美意識とテクニックが黒澤作品を生み出しているのだなと、僭越ながら感じました。
野良犬
続いて同年、新東宝で「野良犬」を製作。初めての試みとしてまず小説を執筆し、そこからシナリオに落とし込んだ。菊島隆三との共作である。
編集の冴えと音楽の使い方の巧妙さは闇市のシーンで発揮されている。
また撮影は助監督の本多猪四郎が本物の闇市を隠しカメラを持って歩き撮影した。
この作品が現代の刑事ドラマのベースになる基本部分を作ったという声に賛同できます。
若き日の淡路恵子さんが魅力的です。60年以上も前の映画とは思えないほどの緊張感とダイナミズムが画にあります。
こうして黒澤作品を見ていくと、古いと感じる部分と古くなくて普遍的と感じる部分の2つをしっかり感じながら映画を見ている自分に気が付きます。
醜聞
当時のスキャンダル雑誌に呆れ返っていた黒澤。
言論の自由は結構だが、その自制のない逸脱にこんなことが赦されてはならないと思い、1950年「醜聞」を松竹で製作。
この作品で助監督を務めた野村芳太郎を黒澤は「日本一の助監督」と評している。
黒澤映画といえば、時間もお金も莫大に掛けて映画を作るというイメージだが、このころは撮影期間も予算もオーバーすることなく、きっちり終わらせている。
アマゾンのレビューに「白痴とか生きるとか羅生門とかいろいろみたけど、いまのところ、この映画が一番ドストエフスキーに近いです。」というのがあって、これにまったく共感。
この羅生門に向かうまでの作品たちがもっと評価されてもいいのではないかと思う。この映画を見ると、現代のヒューマンドラマ⇒泣かせよう(商業的)としている下ごごろが逆説的に浮彫りになってくる。
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脚注
※1 文藝春秋発行 小林信彦著書 「黒澤明という時代」より抜粋
※2 やのまん発行 塩澤幸登著書 「黒澤明 大好き!」より抜粋
※3 毎日新聞社発行 堀川弘通著書 「評伝 黒澤明」より抜粋
※4 河出書房新社発行 「黒澤明 生誕100年総特集」より抜粋
※5 文藝春秋発行 田草川弘著書 「黒澤明VSハリウッド トラ・トラ・トラ!その謎のすべて」より抜粋
絵画に目覚めた少年時代1910年、父・勇と母・シマの4男4女の末っ子として東京都に生誕。父は現在の日本体育大学の理事をしていた。1916年、財界人や有名人の子弟が多かった森村学園の付属幼稚園に入園。しかし数年後、父・勇が仕事での不正を追求され、理事を退く。私立の森村学園から公立の黒田尋常小学校に転校...
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1927年、中学を卒業した黒澤は画家になることを志し、美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)を受験するがあえなく失敗する。しかし画家の道は諦めず、川端画学校に入学し洋画を勉強した。1928年、秋の二科展で「静物」が入選する。翌1929年には「日本プロレタリア美術家同盟」に参加、第二回展示会に、「建築...
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画家を一生の仕事をしていくことに自信を失くしていた黒澤。そのころの心境を自伝「蝦蟇の油」でこう語っている。3年間私には、特にこれという出来事はなかった。兄の自殺と前後して、音信普通だった長兄の病死の報があり、私の家の男は私一人になってしまったのだから、なにか長男のような責任を感じ始めていた。若いとき...
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黒澤は入社早々サード助監督として矢倉茂雄監督の「処女花園」についた。この一本で黒澤は映画作りが嫌になり、早々と退社することを考えたが、周囲になだめられて思いとどまったらしい。そのあと2作目についたのが、面接時に意気投合した山本嘉次郎監督の「エノケンの千万長者」。この一作で黒澤は映画作りにやりがいを感...
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姿三四郎富田常雄原作の小説「姿三四郎」の新聞広告を見て黒澤は「これだ」と直感的に思い、読みもしていないのに企画部長のところへ駆け込むが、とにかく読んでからということになって、その日の夕方に書店で買って読むとやはりおもしろいということで、さっそく東宝が映画化のオファーを出したという。この後、一日遅れで...
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酔いどれ天使次の作品、「酔いどれ天使」で三船敏郎がはじめて黒澤作品に登場する。この「酔いどれ天使」はその当時の若者におおきな影響を与え、街のやくざ、チンピラは三船の劇中でのスタイルを真似た。酔いどれ天使は毎日映画コンクールの日本映画大賞に選ばれこの年のキネマ旬報のベスト1にも輝く。三船は映画界に入る...
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静かなる決闘東宝を離れた黒澤は、1949年、大映で「静かなる決闘」を製作。ストライキ中に作った「映画芸術協会」の協会第一作目となった。前作「酔いどれ天使」で三船が演じたやくざは彼が持つ魅力にはまり当たり役となったが、本作では誠実なインテリの医者役を三船に振り当てた。黒澤の兼ねてからの主張である、「前...
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羅生門1950年、大映で「羅生門」を製作。芥川龍之介の小説「羅生門」と「籔の中」をベースに橋本忍との共作で脚本を仕上がる。元は橋本が持っていた脚本「雌雄」が原型。撮影は黒澤の希望で大映のキャメラマン宮川一夫が担当する。当時はフィルムが焼けるとしてタブーとされていた太陽に直接カメラを向けるという撮影を...
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白痴1951年、ドストエフスキー原作の「白痴」を松竹で製作、公開。松竹との間では前後編2部作で4時間半に及ぶ大作として、契約が交わされてたはずであったが、いざ完成すると、暗いだの長いだの難癖をつけて、結局2時間46分に短縮されて上映された。今日だったら裁判沙汰であろうエピソードだが、当時は泣く泣く受...
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1954年、1年以上の製作期間と2億1千万円というと当時の通常の7倍ほどの破格の制作費をかけて作された「七人の侍」が公開される。アメリカの西部劇が大好きな黒澤が作った日本版西部劇ともいえる。「だいたい日本映画にはコッテリとした、たっぷり栄養のある娯楽作が少ない。この辺でそういう味の満喫できるものを作...
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賛否両論「生きものの記録」1955年、原水爆の恐怖を描いた「生きものの記録」を製作。核兵器の恐怖に狂っていく老人を主人公にしたドラマである。志村喬が演じるかと思いきや、主人公の老人は35歳の三船敏郎に振り当てられた。三船の老け役はちょっと無理があるように思われたが、生気あふれ、次第に狂っていく老人を...
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隠し砦の三悪人1958年、娯楽時代劇の傑作「隠し砦の三悪人」を製作。黒澤作品初のスコープサイズでの作品。理屈なしの徹底的に娯楽を追及した大活劇である。第9回ベルリン国際映画祭では監督賞を受賞、日本国内でも大ヒットを記録した。ジョージ・ルーカスの代表作「スターウォーズ」は「隠し砦の三悪人」からアイデア...
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名作「用心棒」1961年、これが外れれば黒澤プロも終わりという中で、時代劇の傑作「用心棒」をドロップ。「用心棒」は大ヒットし、ヴェネツィア国際映画祭では三船敏郎が主演男優賞を受賞。黒澤プロダクションはこの作品で名声とともに経済的にも大きな成果をあげた。後にセルジオ・レオーネ監督、クリント・イーストウ...
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推理映画の傑作「天国と地獄」誘拐をかねてから恐れていたという黒澤が、たまたま読んだというエドマクべインの小説「キングの身代金」にインスパイアされ製作したのが、1963年公開の「天国と地獄」である。長男の久雄は当時17歳で誘拐の恐れはないが、長女の和子は8才と幼く有名人子弟の営利誘拐の可能性は否定でき...
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1960年、黒澤は日本オリンピック組織委員会から、4年後の東京オリンピック公式記録映画の総監督をお願いしたいとオファーを受ける。東宝の森岩雄の勧めもあり、黒澤をこれを引き受ける。ローマオリンピックへ下見に行き、綿密な計画を立てて黒澤が出した試算は約5億円であった。今でいうと20億円ぐらいだろうか。こ...
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日本映画界で頂点を極め、世界でも指折りの監督となった黒澤明。しかし彼が描く映画のスケールは日本の映画界では実現困難な時代となっていた。いよいよ世界へ出ていくより道が無くなった黒澤。「赤ひげ」が公開された後、黒澤は東宝と手を切りたいと考えており、もうすぐ切れる東宝との専属契約は更新しない考えであった。...
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「暴走機関車」の企画が迷走していたころ、20世紀フォックスのプロデューサー、エルモ・ウイリアムスが「トラ・トラ・トラ!」の企画を黒澤プロに打診していた。日米開戦のきっかけである「真珠湾攻撃」を題材にした映画。トラ・トラ・トラとは「真珠湾攻撃に成功した」という日本軍のモールス信号である。黒澤ファンのエ...
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照明器具落下事件12月4日、プロデューサーのエルモは9時に撮影所入り。スタッフは準備に余念がない。しかし黒澤はまだ来ていない。彼は前夜から今朝まで酒を飲み続け、睡眠薬も服用。現場に現れたと思ったら機嫌が悪く、カリカリしていてスタッフを怒鳴りつける。スタッフは対応に戸惑う。今日も現場を見学しようと午前...
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京都を離れ、ハワイ真珠湾の撮影現場に戻ったエルモ・ウイリアムズは、この映画の正念場とも言うべき戦闘場面の撮影準備の大詰めに追われていた。ところが、京都にいる製作主任からはトラブルの報告が続く。エルモは苛立つ。ハワイの撮影は文字通り命がけ。改造したゼロ戦編隊を生身のパイロットが飛ばし、米海軍から借りた...
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エルモの再来日と黒澤の自滅撮影現場の混乱が収まらない!と、エルモに連絡を入れ続ける現場責任者のスタンリー。それを受けて一度は監督降板の覚悟を決めつつ、エルモ自身が京都にやってくる。現場で聞こえてくるのは黒澤の奇行、体調を崩しての撮影中断、「果たし状事件」「ヘルメット・ガードマン事件」など、コントのネ...
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12月22日、黒澤はエルモを撮影現場に呼ぶ。ステージ入り口からセットまで赤じゅうたんが敷かれ、ファンファーレが鳴り、スタッフは直立不動で、エルモを迎えた。キャメラ脇の椅子までエスコートされたエルモは黒澤に、「ヘルメットを着用してください。照明器具が落ちてくるかもしれません。」と言われる。その途端、天...
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「トラ・トラ・トラ!」の解任で大きなダメージを受けた黒澤は、アメリカ映画に頼らず、日本で映画を作る道を選ぶ。日本映画界の精鋭を結集して力を合わせて日本映画を復興させる。まずはお金の掛からない低予算で映画を作ろうというコンセプトで、木下恵介、市川崑、小林正樹らに呼びかけ「四騎の会」という芸術家集団を結...
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影武者ソ連に渡って制作した「デルス・ウザーラ」は世界中で評価され、復活の足掛かりをつかんだ黒澤は、次に壮大な戦国ピカレスクロマン大作「乱」を企画するが、制作費があまりにも巨額ということで、前哨戦として「影武者」を撮ることになった。「影武者」>もまた予算が確保できず、制作が難航したが、黒澤を敬愛する「...
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1910年(明治43年)3月23日、東京府に生まれる。父・勇(45歳)、母・シマ(40歳)の間の四男四女の末っ子である。1916年(大5) 6歳森村小学校に入学。1917年(大6) 7歳小石川区西江戸川町へ転居。黒田尋常小学校へ転校。1918年(大7) 8歳立川誠治先生が担任となり絵に興味を持つ。同...
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