昭和42年、成城9丁目の敷地に完成した真新しいステージでの第一作目は、小林正樹監督を迎えての時代劇『上意討ち 拝領妻始末』であった。
しかし、小林が松竹の専属監督だったからというよりは、これまでつきあっていた監督たちとは違う資質の監督であったため、三船には苦しい経験となった
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脚本家橋本忍が回想する三船の苦悩
橋下忍はこの『上意討ち 拝領妻始末』について以下のように語っている。
僕は小林正樹監督とは『切腹』を撮ったころから親しくて、『日本の一番長い日』という映画も最初は小林監督が撮ることになっていたんだ。
いっしょにロケハンなんかに行ったりしてたんだけど、ある日東宝の藤本が電話をかけてきて、すぐに会社に来てくれと。
そしたら小林監督と大喧嘩をしたというのよ。藤本はプンプン怒っていて、
「俺は小林監督は使わん」と言うから、「じゃあ、今回の映画は止めるんか」と聞いたら、「止めない。お前が監督しろ」と言われたので、「そんなことは出来ない。僕は健康状態もよくないし」と断った。
それでしばらくして岡本喜八監督に決まったんだけどね。
それで小林監督が浮いてしまったんで、そこで急遽僕が企画していた『上意討ち』という脚本を二週間ほどで書き上げて、三船くんに提案して、承諾を取ってスタートしたというわけだ。
三船は、橋本が書き上げた『上意討ち』の脚本を気に入って撮影に入ったが、撮影途中で異変が起きる。
ある日、三船が橋本の家まで車を飛ばしてきて、「ちょっと一緒にきてください」と言う。三船は午前中に撮影してメイクを落としただけの姿だった。
「午後からの撮影を見て欲しい」と言われ橋本は車に乗って撮影所まで向かった。
彼のスポーツカーに乗せてもらったのは、あの日が初めてだったけど、素晴らしく運転が上手だったね。ハンドルさばきが実になめらかで、世田谷の狭い道をスイスイ走っていくんだ。
勝新太郎にも車に乗せてもらったことがあったが、酔っぱらっていたし、怖かったね。勝も運転は上手いけど、三船くんは段違いだね。
初めて三船の車に乗り、その運転技術に関心したものの、撮影所に到着してセットを覗いた橋下は口を開いた。
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僕はその時、小林正樹監督の撮影を初めて見学したんだけど、ああ、なるほど。三船くんが怒るのも無理はない、と思ったね。
小林監督は絶対に中抜きしないのよ。キャメラは一台だし。これhあもう延々と時間が掛かるよね。
僕は東宝の知り合いの監督なら、中をちょっと抜けよというぐらいのことは言えるけど、小林監督は松竹の人だから、そんなことは言えない。あのときの三船君の怒りを押し殺した顔は実に厳しかった。
こんな状態では、撮影を続けられないと思ったんじゃないの。
※ 中抜きとは、同じ場所で同じ演者のシーンはまとめて撮ってしまうという撮り方。
しかし、小林さんも大変な監督だよね。黒澤監督なら2台で撮ってるから、わりと短時間で撮影は終わるわけ。
だけど、キャメラひとつで撮る場合は、通常は抜くよね。その手法が小林監督の良さかもしれないが、結局彼は最後まで中抜きしなかったんじゃないかな。
小林正樹の師匠である木下恵介は中抜きが得意だったらしいが、弟子は自分のスタイルを貫き通した。
個人プロダクションである三船プロは、少数のスタッフ編成で、セットは映画撮影を目的としては建築許可されず、住宅という名目で完成されたことで、電力が200KWまでしか使用できないこともあって、セット撮影は大変苦しい撮影だったという。おおきな照明が使えないので、それだけでも撮影の能率は下がってしまっていたので、その環境の中での”中抜きなし”撮影はかなり厳しかったのではないでしょうか。
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共演の司葉子の回想
共演した司葉子が撮影について、ほぼ三船擁護の発言をしている。
三船さんは、あの作品に賭けていたんですよ。
ところが監督の小林正樹さんが理由がわからないまま、夜間のロケの中止を一週間ぐらい続けたんです。
製作費としてはギリギリのところなので、三船さんはずいぶんとヤキモキしていたと思います。
司と共演していた加藤剛は、俳優座の公演中で、セット入りは夜間になる。その間に小林が別の撮影を始めてくれれば、経費の節減になるのだが、小林は撮影を中止したまま待った。
それに三船さんは、とにかくスタッフに好かれていたから、作品に関わったみんなが新しい門出を応援していたんです。
残業になったりすると、奥さんがお汁粉などを作って持ってきてくださったり。
三船さんはみんなが心地よく撮影が進むように、それは気を配ってらした。
なのに小林さんは夜間の撮影は何度も中止しる。予算のこともあるのに、もっと監督が三船さんに協力して早く仕上げてあげればいいのに、とみんなが思っていましたね。
続けてこう小林を非難している。
出演してらしたのはベテランの方たちばかりですし、もっと三船さんの立場を考えてあげればよかったのに、という思いは最後までありました。でも、小林監督にはちょっとサディストな面があった。
それに小林監督は加藤剛さんがとてもお気に入りだったので、加藤さんは芝居でなにをしてもいい。私は加藤さんと夫婦の役だったんですけど、お昼ご飯の時なんかも、加藤さんと並んで座っちゃいけないの。監督が嫉妬しちゃって。
とにかく私たち俳優を含めて、スタッフたちは「なんで小林監督は三船さんを苛めるんだろう」という感じで見ていました。三船プロ撮影所での第一作目が順調に進まなかったわけです。
三船さんは本当にお気の毒でした。
しかし三船は小林監督本人には、何の苦情も言わず、ひたすら耐えて演技を続けた。
そうして生まれた『上意討ち』は、ベネチア国際映画祭でフィプレシ賞、ニューヨーク映画祭、ロンドン映画祭にも招待され、海外で高い評価を受けた。
役柄の設定が耐える男であった三船、現実にも耐えて耐えての撮影が、映画の演技にリアリティを与えたのか。
怒りの殺陣シーンでは、斬られ役の神山繁は
「背後から槍で刺されるときに、三船さんの歯ぎしりの音が聞こえてきて、ゾッとした」と語る。
神山は三船の演技に狂気に似た怒りを感じたという。
このページの参考文献
※ サムライ 評伝 三船敏郎(文集文庫)
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