三船敏郎を語る上で外せない作品、稲垣浩監督『無法松の一生』

スポンサーリンク

三船敏郎と『無法松の一生』

三船敏郎と言えば、黒澤明監督の『羅生門』『七人の侍』『用心棒』などの映画タイトルを連想する人が多い。そう黒澤明とのタッグ作品である。

 

しかし、昭和33年に公開された稲垣浩監督の『無法松の一生』を三船の代表作であるという人も少なくない。。

 

稲垣監督と三船は、20本の映画を作っている。以外かも知らないが黒澤明より多いのである。
その20本の中でも世界的な評価を受けた『無法松の一生』は特筆に値するのではないでしょうか。

 

複数の三船プロダクションの元社員がこの作品を「社長の代表作」に挙げているのも興味深い。
彼らは「映画の主人公が社長の人物像と見事に被っている」とその理由を話す。

 

スポンサーリンク

 

三船敏郎の代表作

三船敏郎という俳優は寡黙で不器用で、一途で、義理人情に厚く、我慢強くひたすら何かに耐えている男を演じさせたら絶品である。『無法松の一生』という作品には、その全てが詰まっている。

 

この作品には、三船のファンの多くが魅せられるリアルで豪快な殺陣はない。

 

ギラギラした目を光らせ、野獣の獣のように動き回る男もいない。せいぜいが、学生相手に素手で殴り合う程度である。

 

黒澤とは異なる穏やかな作風の監督、稲垣浩だからだ。しかし、三船敏郎の他を圧倒する抜群の身体能力と、それを発揮しるための努力の成果は、クライマックスシーンといえる太鼓の乱れ打ちで見ることができる。

 

『無法松の一生』は岩下俊作の小説『富島松五郎伝』が原作である。この小説は、昭和18年に坂東妻三郎主演で映画化された。監督は同じく稲垣浩で脚本は伊丹万作。無名の車引きの一生を描いた物語である。

 

稲垣監督は、常々この作品をリメイクしたいと考えていた。

 

前作は戦時中に製作されたため、内務省から「何十万人の戦争未亡人たちが、たとえ精神的な関係にしても、映画のように男に心を動かすようでは、妻を日本に残して戦線に赴く出兵兵士たちの士気が下がる」という指摘を受け、松五郎と未亡人との間の慕情をい描いたシーンをカットされた。また、戦後はアメリカ占領軍から、小学生が唄う「青葉の笛」、中学生のい群か、ケンカシーンの削除を命じられた。

 

そのため、稲垣には時の権力に屈したというおおきな不満が残ってあり、今度こそはと完全な作品を撮りたいと思い続けていた。

 

だが、いざ配役するとなると、松五郎を演じる役者がいない。三船のことは頭に浮かんだが、坂東は41歳で主人公を演じており、30代の三船はでは若すぎると感じた。

 

だが、三船が黒澤明監督の『生きものの記録』に出演した後で考えが変わった。

 

三船は、業界では著名なメイクアップ万・小林重夫に顔を作られ、70歳の老人を演じていた。小林の技術はメイクした三船が撮影所内を歩いても、誰も気がつかないほど巧妙だった。実年齢35歳の三船が見事に変身した姿を見て、稲垣は迷わず松五郎役を三船に決めた。

 

稲垣は思った。同じメイクアック万の小林重夫に頼めば、三船の容姿を変えることが出来る。松五郎は十数年近く未亡人を想い続ける設定のため、最後は50代になっているが、それが可能になる。美貌で上品な未亡人役は、高峰秀子と決めていた。

 

今の若い人たちに、昔はああいう男が日本にいたんだということを見てもらいたい。

 

そう思ってリメイクを決めた稲垣だが、肝心に三船が出演を渋った。三船が坂東妻三郎が演じた『無法松の一生』を観ており、自分にやれるかどうか、ためらったのである。

 

だが、稲垣の「阪妻の名演なんか忘れて、三船敏郎の松五郎を作ろうじゃないか」という言葉に打たれて出演を引き受けた。

 

スポンサーリンク

 

『無法松の一生』

映画の舞台は、明治時代の九州小倉で、小倉では知らぬ者がいないという車引きの富島松五郎が主人公だ。

 

彼は腕っ節が強く、一本気な性格で、向こう見ずな面もあったが、人からは愛されており、無法松と呼ばれていた。

 

そんな松五郎がある出来事から吉岡という陸軍大尉に出会う。吉岡には良子という美しい妻と、敏雄というひ弱な一人息子がいた。

 

大尉と車引きという身分違いの男たちは、出会ってすぐ意気投合するが、大尉は風邪が元であっけなく死んでしまう。

 

以後、松五郎は好きだった酒を断ち、残された良子未亡人とその息子を陰になり日向になって見守り続ける。妻子のいない松五郎にとって、2人は疑似家族のような存在だった。

 

諸外国でこの作品が公開されたとき、小学生の敏雄の運動会で、徒競走に飛び入りした松五郎が、車引きの走り方で1位になるシーンで、観客だちにユーモラスな笑いが起きたという。

 

映画史に残るほどの名シーン 祇園太鼓

 

なんといっても圧巻なのは、ひ弱だった息子の敏雄が高等学校に進学し、恩師に祇園祭を見学させるために帰省した日の出来事だ。

 

敏雄の恩師は伝統ある祇園太鼓を聞きたいと望んでいたが、正式な祇園太鼓を打てる者はいなくなっていた。それを知った松五郎は、太鼓が乗った山車に登り、撥を借りた。

 

「この映画の撮影の時、私が小倉の出身だったものですから、稲垣監督に『おまえついてくれないか』と頼まれたんです。

 

三船さんからも祇園太鼓のことを色々相談されましたね。」

 

そう語るのは三船プロ元専務の田中壽一。

 

「小倉に田中伝六という太鼓の名人がいたので、この人を呼んで、祇園太鼓を何種類か打ってもらい、テープに録音しました。三船さんは東宝のスタジオに太鼓を置いて、そのテープを聞きながら、何か月も一人で練習していましたね。」

 

実際に三船は、毎日、午前7時には撮影所に入り、車を演技課前に乗り捨てて、音楽採り用のおおきなステージに立った。片隅には大太鼓が置かれてあり、テープの音に合わせて撥を振り下ろす練習を繰り返した。

 

最初は蛙打ち、流れ打ち、次第に難易度を増して、勇み駒、暴れ打ちの4種類をマスターしたのだった。

 

たとえ一発でも音と撥の動きがずれると、最初からやり直しという、体力と気力がいる過酷な練習である。

 

スポンサーリンク

 

「祇園太鼓の撮影シーン当日は、大正時代の扮装をしたエキストラが何百人も集まってましたね。終わった時はもう全員が万雷の拍手ですよ。音と振りがまったく違わなかった。

 

太鼓を打つシーンで、松五郎が片肌脱ぎになり、最後にもろ脱ぎになるのは全部三船さんが自分で考えてやったんです。

 

ただ太鼓を叩くだけでは面白くないということで、自分え見せ場を考えて演じたんです。本番は一発で決まりました。」

 

田中壽一

 

スタッフはもちろん、観客役でもあったエキストラたち、全員が大きな拍手をしたという。拍手はおざなりではなく、心からの感動を伝えるものだった。その拍手は三船が山車を降りて、照れくさそうに頭を下げるまで続いた。

 

三船ほどの身体能力が高く、リズム感のいい俳優なら、テープの音に合わせるのではなく、自分で打つ方がよほど楽だっただろう。だた、三船は完璧に難関を乗り切った。

 

この作品のクライマックスはもうひとつある。松五郎が、これまで抑えに抑えていた良子未亡人への恋心を伝えるシーンだ。

 

そのシーンはごく短く、だからこそ切なさが伝わってくる。リメイクの演出では松五郎が「奥さん」と呼んだあと、一瞬、未亡人の手を握ろうとする。だが、未亡人はその手を払い触れさせなかった。

 

このシーンもまた切ない。想いが溢れてつい手を伸ばしてしまった松五郎を拒む未亡人。彼女は彼の気持ちに気付いていながらも、死んだ夫への貞操を守ろうとした。時代が大正なので現代よりも「身分差」という言葉に重みがあっただろう。松五郎は、恋をしてはならない女性に心を捧げてしまったのだ。

 

ベネチア国際映画祭でグランプリを獲得

この三船敏郎を起用したリメイク作品で、稲垣は前作を越えて世界的な評価を受けた。ベネチア国際映画祭で高く評価され、最高の名誉であるグランプリを獲得した。

 

稲垣は出品の際、ポケットにフィルムうを入れて渡航した。ベネチア国際映画祭の試写室に入るときは、羽織袴の着物姿で正装して、自らの手デフィルムの入れ替え作業を行ったという。

 

この年は木下恵介監督の『楢山節考』も同時に出品されており、予想ではそちらの方が有力であった。

 

稲垣は戦前、戦後に受けた屈辱を見事に晴らしてみせたが、主人公を演じた三船敏郎は晩年、どんあに頑張っても報われぬ思いに苦悩し、松五郎に似た人生を生きたのではなかったか。

 

『無法松の一生』の三船が黒澤作品で演じた役とは異彩を放つ所以である。

 

※サムライ 評伝 三船敏郎(文春文庫) より抜粋

 

このエントリーをはてなブックマークに追加   

 

U-NEXT で三船敏郎出演作を観る(31日間無料)

 

三船敏郎 「男の癖にツラで飯食うなんてイヤです!」 元々は撮影部希望だった!

1920年(大正9年)、4月1日、中国山東省青島に三船家の長男として生まれる。父の徳造は秋田県出身で、中国に渡り、青島、泰天、天津あたりに店舗を構えて「スター写真館」という写真店をやったいたという。日露戦争では、従軍カメラマンをやったという父。幼い頃から大連で家業を手伝い、写真技術に詳しくなった。大...

≫続きを読む

三船敏郎 酔いどれ天使でヤクザを演じ人気爆発!

三船敏郎に惚れた黒澤明三船敏郎の衝撃デビュー作「酔いどれ天使」は、山本嘉次郎監督の「新馬鹿時代」で組まれた闇市のセットが大掛かりだったので、解体する前にもう一本撮っておきたいという都合から製作されることとなった。「日常性を描くなんて、もうごめんだね。俺の今やりたいのは逆に日常性の中からカアッと飛躍し...

≫続きを読む

三船敏郎とニューフェイスの同期生だった幸子夫人との新婚生活

三船と幸子夫人の結婚の媒酌人は、山本嘉次郎監督が務めた。挙式は青山学院大学の礼拝堂で行われ、幸子夫人は22歳、三船は29歳。お似合いの美男美女カップルであったという。三船の両親は二人ともお亡くなりになっていたため、親代わりとして志村喬夫妻が出席したという。「デビューからしばらく、父は岡本喜八監督とい...

≫続きを読む

三船敏郎が回想する『羅生門』 三船直筆の原稿を紹介

三船敏郎は生涯に150本の映画に出演している。そのうち、黒澤明とのゴールデンコンビでの作品は16作品である。『酔いどれ天使』『静かなる決闘』『野良犬』『醜聞』『羅生門』『白痴』『七人の侍』『生きものの記録』『蜘蛛巣城』『どん底』『隠し砦の三悪人』『悪い奴ほどよく眠る』『用心棒』『椿三十郎』『天国と地...

≫続きを読む

三船敏郎を語る上で外せない作品、稲垣浩監督『無法松の一生』

三船敏郎と言えば、黒澤明監督の『羅生門』『七人の侍』『用心棒』などの映画タイトルを連想する人が多い。そう黒澤明とのタッグ作品である。しかし、昭和33年に公開された稲垣浩監督の『無法松の一生』を三船の代表作であるという人も少なくない。。稲垣監督と三船は、20本の映画を作っている。以外かも知らないが黒澤...

≫続きを読む

三船敏郎の殺陣の凄さとは?!殺陣師宇仁貫三が語る三船敏郎の殺陣の謎

三船敏郎は「男のくせにツラで飯うぃ食うのは好きではない」と俳優業を嫌がっていた面があったが、いざ役を与えられたときには、骨身を削るほどの努力で監督の期待に応えようとした。撮影前にセリフを全ておぼえることなど、彼にとっては当然のとこであり、その努力は現代劇、時代劇に関係がなかった。『羅生門』にはじまり...

≫続きを読む

一人の左遷社員が”世界のミフネ”のハリウッドギャランティを決めた!

昭和39年当時、東宝は国内だけではなく、ホノルル、サンフランシスコ、ニューヨーク、ロサンジェルスに直営館を持っていた。ロスでの直営館『東宝ラブレア劇場』の運営を任されていた渡辺毅は元東宝撮影部の助監督。三船の海外映画のギャラの基準を作ったのが、この渡辺毅である。ストライキを起こし、お荷物社員として左...

≫続きを読む

共演女優・香川京子、司葉子が語る三船敏郎の気配りと気遣い

スター街道を着実に進み、国際的にも認められる俳優となった三船。デビューから10年を経て、「東宝のニューフェース」から、「日本を代表する俳優」へ成長していった。海外からの出演依頼も増え、昭和36年には、初の海外進出となるイスマエル・ロドリゲス監督のメキシコ映画『価値ある男』に出演、。アカデミー賞外国語...

≫続きを読む

三船敏郎が鶴田浩二に見せた思いやりエピソード!これが三船敏郎という男だ!

昭和43年、三船は杉江敏男監督、黒澤明・山中貞雄脚本の『戦国群盗伝』という時代劇に出演した。共演は鶴田浩二である。鶴田は前年に東宝と専属契約と結んでおり、松竹から移籍してきたことを強く意識していた。「何か三船だ!俺も天下の鶴田浩二だ!」と公言してはばからなかった。彼は三船とは正反対に、付き人を何人も...

≫続きを読む

三船敏郎と『上意討ち』 小林正樹監督のいじめに耐えた?!

昭和42年、成城9丁目の敷地に完成した真新しいステージでの第一作目は、小林正樹監督を迎えての時代劇『上意討ち 拝領妻始末』であった。しかし、小林が松竹の専属監督だったからというよりは、これまでつきあっていた監督たちとは違う資質の監督であったため、三船には苦しい経験となった脚本家橋本忍が回想する三船の...

≫続きを読む

世紀の傑作『黒部のい太陽』で5社協定に挑んだ三船敏郎と石原裕次郎

昭和43年、三船敏郎と石原裕次郎は東映、東宝、日活、大映、松竹の5社が結んだ「監督や俳優は貸さない、借りない、引き抜かない」という協定に立ち向かった。当時の映画界にはこの「5社協定」を破ったものは、全ての社から拒絶され、映画界から追放されるという暗黙のルールがあった。三船は東宝、石原は日活とそれぞれ...

≫続きを読む

三船プロダクションは別格の規模だった!撮影所を持つ唯一の個人プロダクション!

日本の映画市場は、テレビの出現によって1958年(昭和33年)をピークにして、斜陽産業になっていく。テレビだけではなく、娯楽の多様化も相まって、5年後には観客数が半減してしまい、映画産業自体が危機を迎える。大手プロダクションは事業規模を縮小せざる負えない状況であった。東宝はまず黒澤明に独立させると、...

≫続きを読む

三船敏郎×石原裕次郎の「黒部の太陽」は5社協定という名の破水帯を突破した金字塔的...

映画業界は大手5社が「俳優、監督を貸さない借りない引き抜かない」という5社協定を結んでおり、これに背いた者は、暗黙の了解で干されるというルールが存在していた。大映社長の永田雅一の主導で成立したこのシステムは、1971年をもって自然消滅するまで15年以上にわたって続いた。元々は戦後日活撮影所が映画製作...

≫続きを読む

三船プロダクション『風林火山』の大成功 黒澤明の監督申し出があった?!

自社に本格的な撮影所を構えてからの三船プロは多忙を極めた。昭和42年の『上意討ち』にはじまり。同年の『日本でいちばん長い日』、43年には『黒部の太陽』『連行艦隊司令長官 山本五十六』『祇園祭』『太平洋の地獄』の四本に出演。そして昭和44年の『風林火山』と、7本の映画に立て続けに出演し、精神的、肉体的...

≫続きを読む

三船敏郎と仲代達矢の大喧嘩!そして五社監督に三船が土下座?!

『風林火山』の製作の直後、マスコミを騒がす事件が起きた。昭和44年公開の『御用金』途中降板劇である。この作品はフジテレビと東京映画の製作で、東宝の配給。監督はこれが映画5本目となる五社英雄だった。主演は仲代達矢と丹波哲郎。日本初のパナビジョンカラーで撮影するという触れ込みだった。田中壽一は疲れ切って...

≫続きを読む

スター気取りが嫌いな三船敏郎 台本を持たず世界の現場で日本代表としての誇りを持っ...

三船敏郎は、世間の評価とは別にスター気取りが嫌いだった。映画にかかわっている人間かは監督から主役、端役、その他大勢のキャストや、裏方などのスタッフにいたるまで同等の仲間と考えていた。それを如実に表すのが、宇仁が語る次のエピソードだ。『椿三十郎』の撮影のときは、一月か二月の寒い時期でした。斬られ役はみ...

≫続きを読む

関係者が語る三船敏郎と酒 数々の酒乱エピソードは本当なのか?

勝新太郎は、かつたて三船と対談した日のことをこう語っている。「酒を飲みかわしながら話したんだが、一緒にいることでひとつ格が上がったなぁ、とフッと思えるような人だった…」三船敏郎は酒癖が悪いとか、酒乱とか言われているが、本当だったんだろうか?関係者の証言三船は気遣いが日常的、心根が優しく、几帳面、責任...

≫続きを読む

三船敏郎と喜多川美佳の出会いは『赤毛』という作品

成瀬己喜男監督が死去し、黒澤明、木下恵介、小林正樹、市川崑ら4人が集まって『四騎の会』を発足させた昭和44年。三船は岡本喜八の監督・脚本で『赤毛』の撮影に入った。女郎役の一人だった名もなき女優この作品で三船は運命の女性出会う。三船の側近の田中壽一は、喜多川美佳についてこう語っている。『赤毛』には女郎...

≫続きを読む

三船敏郎『レッド・サン』 出演に至るVIP待遇の経緯とアラン・ドロンとの関係

三船プロを立ち上げてからの三船敏郎は、会社の大黒柱として、いろいろな作品に精力的な働かざるをえない状況であった。時代は映画からテレビへとシフトチェンジに移っており、国内での映画オファーや、三船プロの売り上げも伸び悩んでいたが、三船には海外からのオファーが絶えなかった。企画はかなりの数があったが、比較...

≫続きを読む

三船敏郎と黒澤明の不仲 晩年、コンビを組まなくなった本当の理由

数々の名作を生み出してきた黒澤・三船の黄金コンビだが、昭和40年の『赤ひげ』を最後にして、二度と仕事を共にすることはなかった。そのため、監督と三船と関係に何か問題が起きたのではないか、という不仲説が今も流れている。ちまたの噂は「黒澤が三船の酒癖の悪さに嫌気がさして、使いたがらなかった」とか、「黒澤プ...

≫続きを読む

黒澤明と三船敏郎 黒澤長男が語る2人の本当の絆 『赤ひげ』はミスキャストだった?...

「うちの父が三船さんのことを嫌いだなんて言ったことは、一度もありませんよ。」そう断言するのは、黒澤プロダクション社長で長男の久雄氏だ。黒澤明が世界中から注目を浴びたのは、三船さんのお蔭だと思います。父は三船敏郎という役者の存在感をうまく生かして注目を浴びた。黒澤明の映画人生において、彼がいたことによ...

≫続きを読む

三船敏郎と黒澤明の不思議な関係性

『赤ひげ』以降、黒澤明監督、三船敏郎主演の映画は実現しなかった。不仲説もあるが、色々な関係者の証言をまとめると、嫌いになって離れていったわけではなさそうだ。ただ、一筋縄ではいかない、なにか長年連れ添って熟年になって離婚した夫婦のような感じもする。このページでも、また関係者の証言を追っていきましょう。...

≫続きを読む

『乱』はもともと『椿三十郎』の続編で三船敏郎主演であった。

当時、三船の右腕として働いていた田中壽一は、黒澤と三船が巷で言われるより、もっと親しい関係を築いていたと話す。昭和51年頃だったか、黒澤さんが会社にやってきて、「娘の和子が結婚するんだ」と話されたんです。相手は加東大介さんの息子さんで、三船さんも私もよく知っていた人です。私がお祝いを言うと「だけど、...

≫続きを読む

三船プロの崩壊の最大の原因を、裏切者田中壽一が語る!「愛人が○○だったから…」

スティーブン・スピルバーグ監督作品『1941』に三船が出演した昭和54年の8月末、三船の片腕と呼ばれ専務であった田中壽一が、三船プロの俳優のほとんどを引き抜き、独立するという事件が起きた。田中は竜雷太、多岐川裕美、秋野暢子、真行寺君江、夏圭子、岡田可愛、勝野洋、らのテレビで活躍する俳優25名と、社員...

≫続きを読む

三船プロ崩壊 腹心の部下たちとの決別 弟子夏木陽介が語る謀反者の行動

三船プロに残った社員たちからは、「造反の首謀者」「裏切者」「恩知らず」の汚名を着せられた田中だが、三船敏郎に対うする思いは、愛の告白に近いほど深かったという。映画の企画や打ち合わせがあって、外国へ行った時、私は三船さんと一緒にいて、何度も身震いをしました。例えば、シャルル・ド・ゴール空港の税関で周囲...

≫続きを読む

三船を裏切った腹心たちの末路。栄枯盛衰、因果応報とも言えるその後…

三船プロを分裂させた上で設立した「田中プロモーション」は、高倉健主演の「駅 STATION」「海峡」「居酒屋兆治」などの話題作を次々と製作。最盛期の昭和57年には年商14億円を上げる絶好調っぷり。しかし、翌年昭和58年には、副社長だった阿知波伸介が竜雷太、秋野暢子らタレント15名を引き連れて独立。今...

≫続きを読む

志村喬と三船敏郎 「酔いどれ天使」で共演し約30年、師弟関係にあった2人の別れ

三船プロダクションという会社が分裂してから、3年後の昭和57年2月11日、三船敏郎はまたしても悲な出来事に遭遇する。新人の頃から親のように慕っていた志村喬が病死したのだ。志村と三船は、谷口千吉監督の「銀嶺の果て」から熊井啓監督の「お吟さま」までの約30年間に、52本もの作品で共演している。男優の中で...

≫続きを読む

追悼三船敏郎 黒澤明の弔辞や夏木陽介、香川京子、司葉子が語る三船敏郎

平成10年、1月24日に行われてた三船の葬儀・告別式では、生前に親しかった千秋実や香川京子らが弔辞を読んだが、黒澤明は体調不良で出席できず、息子の黒澤久雄が代読した。三船君、今日は君の葬式だというのに、僕がそこへ行けないということをまず、謝ります。いまだに足の調子が悪くて、表に出られないのです。僕も...

≫続きを読む