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田中プロモーションの結末
三船プロを分裂させた上で設立した「田中プロモーション」は、高倉健主演の「駅 STATION」「海峡」「居酒屋兆治」などの話題作を次々と製作。最盛期の昭和57年には年商14億円を上げる絶好調っぷり。
しかし、翌年昭和58年には、副社長だった阿知波伸介が竜雷太、秋野暢子らタレント15名を引き連れて独立。今度は田中が作った会社が内部分裂した。
田中のコメントによれば、阿知波の下にいたスタッフが、ある女優さんのCMのギャラ500万円のうち、250万円を抜いてしまったという。ギャラを払い込んだところから領収書が出てきて発覚したのだという。
阿知波は竜雷太を社長にして「アクターズプロモーション」を設立し、田中から完全独立した。
のちに田中の会社も阿知波の会社も多額の損失を出して倒産。阿知波は昭和59年多岐川裕美と結婚し、一子を設けていたが、平成9年に離婚。そして平成19年、鹿児島県内で自殺した。2,3年前から体調を崩し、悩んでいたという。
田中壽一もまた、波乱続きだった。平成3年に7億円を超える負債を抱え、ついに会社を倒産させた。田中は仕事が全盛期の昭和57年、21歳年下の烏丸せつこと結婚し、二子をもうけたが、平成3年に脅迫の疑いで逮捕されている。のちに烏丸と離婚。
三船敏郎に反旗を翻した田中も阿知波も栄枯盛衰という言葉を想起させるような生き方である。

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