この世に生きる人々の収入を10段階に分けると、トップ10%の合計収入はその他90%の合計収入より高い、そんな話を飲み屋でしたり顔で語るインテリ気取りをたまに目にする。
翌日にはそんなインテリ気取りもインテリを気取られたやつも、隣の卓で飲んでたやつも店の前を通り過ぎて行ったOLも部長も課長も皆満員電車にぶち込まれる。
そしてそんな満員車両の全員分の収入を一人で稼ぎ上げるやつらはどっかの高級ホテルでまだシルクにくるまれて眠っている。
こんな貧富の差の話なんて聞き飽きるくらい聞かされて、聞くたびに無性に腹が立って僕らは立ち上がらなければと奮い立つ。
しかし次の瞬間に我に帰りすぐにまた席に着く。
立ち上がると僕らは気づく、自分があまりにも丸腰な事に。
何かを始める資本もなければ、何かを始める知恵もないしスキルもない。こうなると一番必要な度胸や勇気は沸き立ってこない。
世の中の道徳はそうして大人しく席についた人々を優しく迎えてくれる。
小さな幸せを掴めば良いじゃないか、小さな愛を見つければいいじゃないか。
郊外の庭付き一軒家、ファミリーカー、子供との休日のお出かけ、そんな人生だって悪くない。
真面目にコツコツ生きる、勤勉は美徳、家族の愛こそ何よりも大事。
使い古された道徳観は未だに変わっていない。
映画の中でもそんな道徳観が家族愛やクライマックスの涙誘う展開を通して語られることは少なくない。
そんな映画に比べると「スカーフェイス」という映画は全くもって道徳的とは言えないだろう。
なぜなら主人公は、上に立つ人間を殺し、危ない橋を渡り、コカインを大量に捌いて億万長者になる。
ハイリスクハイリターンの生き様こそがこの映画の美徳だ、道徳的生き様を描く映画から最も遠い映画と言っても良いだろう。
けれど映画の表層だけを見てその根底に流れるものを無視するのはもったいない。
血みどろで、薬まみれで、周りから誰もいなくなってしまう男を描いたこの映画にはある種の強烈な道徳観が表現されている。
映画の根底に流れる本質をすくい取ることこそ映画鑑賞の醍醐味だ。
「スカーフェイス」は1983年のアメリカのギャング映画。
監督はブライアン・デ・パルマ、脚本はオリヴァー・ストーン、出演はアル・パチーノ、スティーブン・バウアー、ミシェル・ファイファーなど。
監督のブライアン・デ・パルマはスティーブン・キング原作の「キャリー」でヒットを飛ばしたもののその後はなかなか良い作品を作れずという状況が続いていた。
一方脚本のオリバー・ストーンは後に「プラトーン」「ウォール街」など社会派映画の名手となるがこの時は監督した映画が大失敗に終わっていた。
そんな二人がタッグを組んだのがこの「スカーフェイス」だ。
実際は1932年公開のハワード・ホークス監督作「暗黒街の顔役」リメイクなのでオリバー・ストーンの脚色というのが正しいかもしれない。
禁酒法時代に暗躍した実在のギャング、アル・カポネをモデルにした「暗黒街の顔役」を1980年代を舞台に変え、酒の密売をドラッグの密売に変換し、格差意識や孤独感を挿入したオリバー・ストーンの脚本、それを過剰なバイオレンス描写を加えて描き一級のエンタテインメント映画に仕立て上げたデ・パルマの演出力は見事だ。
不遇の時期の二人の鬱憤が混ざり合って爆発した作品とも言える。
不遇の二人と同じように、この映画の主人公トニー・モンタナ(アル・パチーノ)もまさしく不遇の人間だ。
モンタナはキューバに生まれ、ボートピープル(圧政や紛争地から漁船やヨットなどで難民として逃れる人々)としてアメリカに渡ってきた。
反カストロ主義者で犯罪者であったトニーは友人のマニー(スティーブン・バウアー)と共に難民の隔離施設に入れられ、そこで依頼された殺人と引き換えにグリーンカード(アメリカ合衆国永住権)を手にする。
危険なリスクを犯したにもかかわらずトニーに回ってくる仕事は犯罪や危ない仕事のみ、悪の道でも貧しい者のみが危険を犯し、上に立つものがその利益をすくい取る構造は変わらない。
その不遇の状況からトニーという男がどうやって抜け出し、どうやって悪の道の頂点に登っていくかが「スカーフェイス」で語られる物語だ。
冒頭で「スカーフェイス」に強烈な道徳観が表現されていると記した理由はトニー・モンタナの生き方を子細に眺めていれば分かる。
アル・パチーノが演じるトニー・モンタナという男は瞬く間に悪の道のトップへと上り詰めていくわけだが、彼には特別な武器があるわけではない。
まず、モンタナはチビでひょろっちい男だ、筋肉もない、脅しをかけようにも凄みが出ない。
悪党特有の頭のキレ、所謂ストリートワイズを持っているわけでもない、取引相手ハメられても屈服しない眼差しで相手を睨み付けることしかできない。
これといった人脈もない、人望はあるが皆同じキューバからの流れ者でゴロツキばかりだ。
しかしトニーは誰にも屈しない不屈の野心があった。どんな大物にも平伏さないガッツだけがトニーの唯一持っている武器だ。
相手がどんなに金を持っていようと、どんなに力が強かろうと、どんな脅しをかけられようとトニーという男は屈さない。
仲間が目の前でチェーンソーで手足を切り落とされようが相手の眼球を焼き尽くさんばかりに反抗的な眼差しを向け続ける。
腕力も知恵もないトニーだ、彼の負けない、屈さない、折れない、その信条にはこれといった根拠はない。
「俺の武器はガッツと信用」
そう語るようにトニーにあるのはガッツだけだ。
トニーは文字通りガッツのみで信用を勝ち取り、悪の道の頂点へと上り詰める。
コツコツ地道に、勤勉は美徳、小さな幸せ、小さな愛。
それらの道徳も決して間違ってはいない、しかし物事は多面的に捉えることが重要だ。
これらの道徳は確実に害悪もある、格差を助長してさえいるかもしれない。
格差に向かって声高に叫ぼうとする時、立ち上がって自分だけの力で生きていこうとする時、多くの人は挫折する。
皆我慢して生きているんだ、自分も…
漂っている空気に従うんだ、自分も…
何事も少しづつコツコツと積み上げていかないといけないんだ、自分も…
心が折れそうな時、いかにも最もらしいこれらの甘い言葉が、一人の人間のちっぽけさを自認させてしまう。そして一人の人間は自分に何の武器もないことに気づかされる。
知恵のなさ、技術のなさを気づかされる。
しかしそもそも誰が武器なんて持っているのだろうか。
自ら立ち上がって一歩を踏み出すにはトニーのようにガッツだけで十分だ。
きっと何かしらの壁がいくつも立ちはだかる。そこもきっとガッツで乗り切れる。そこから次第に信用がついてくる。
知恵や技術はいつのまにか身についてくる。
キューバから大国アメリカに流れ着いた、チビでひょろっちい一人の男がガッツだけでトップまで上り詰める生き様は、この世界で力強く生きていく人間のための超道徳的な生き様とも言える。
「スカーフェイス」のバイオレンスな表面ではなく、トニーという男の生き様をじっくり見据えることにこの映画の真の価値があると個人的には思える。
作品の中盤で、悪の道のトップに上り詰めたトニーが高級レストランで妻のエルヴィラ(ミシェル・ファイファー)と口論するシーンがある。
エルヴィラは溜まりかねてレストランから飛び出し、一人残ったトニーは高級レストランで食事する金持ち達から冷ややかな目で見られる。
トニーは金持ち達に悪態をつく
「何を見てんだお?腰抜け共が。お前らは俺を指差して「あいつは悪党だ」と言う。じゃあお前らは何だ?善人か?お前らは平気で嘘をつく。でも俺は真実しか言わない。俺みたいな悪党はもうお目にかかれないぞ。さぁ、悪党におやすみを言えよ」
ここで言う嘘は、一人の人間が立ち上がったときに頭に擦り込まれたかのように想起される一般的な道徳観とも言える。
小さな幸せで良いじゃないか。
コツコツ努力していけばいいじゃないか。
世界中の皆が、俺/私と同じように我慢している。
そんなさも正しいと思えてしまう道徳観だ、
そしてこのレストランのシチュエーション通り、生まれた瞬間から富を持っている人々に対する言葉でもある。
世界の10%が世界の富の90%を持つ程、貧富の格差は大きい。
しかし名だたる企業家を除けばその富は何百年と引き継がれてきた物だ。つまり生まれた時点で既に格差が生まれている。金持ちの子供が貧乏の子供の富を搾取し、それが何代にも受け継がれその差が膨れ上がっている。
「スカーフェイス」の脚本のオリバー・ストーンは今や社会派映画の代表格と言われる存在だ。
彼がトニーにこの台詞を吐かせた事には注目しないといけない。
この映画の根底に流れるのは
「上がりを決め込んだ連中をぶっ殺す」
というメッセージだ。
何にも武器を持たないトニーに、ガッツという武器だけを持たせた事でそのメッセージがさらに強烈に観るものに届く。
とは言ってももちろん「上がりを決め込んだ連中をぶっ殺す」ためにトニーのように人を殺す必要もないし、コカインをやってハイになる必要もない。
トニーのようなガッツが何よりも大事で、きっと誰の心の中にもそれは標準装備されてるということを「スカーフェイス」から学ぶことができる。
不遇の時期の中、ブライアン・デ・パルマとオリバー・ストーンが作り上げたこの作品は「ドラッグ」「バイオレンス」描写が激しい下劣な映画、名作(「暗黒街の顔役」)への冒涜、など評論家達にボロクソに言われた。
しかし実際の興業収入は全米で初登場で2位につけ大ヒットした。
この構造自体が上段から物言う評論家、つまりは「上がりを決め込んだ連中」を観客の熱狂を持ってしてデ・パルマとオリバー・ストーンの熱意が「ぶっ殺した」ようで清々しい。
そしてこの映画は黒人ラッパー、少しの前の世代的に言うとギャングスタラッパーの間でバイブル的な存在になっている。
そこにはもちろん黒人ラッパー達のドラッグと金を巡るリアルなサグライフがこの映画と共鳴する部分が大きいとは思うが、不遇のマイノリティの人々が己のガッツだけでのし上っていくというトニー・モンタナのマインドにエンパワーメントされている部分が大きいだろう。
劇中のラストでトニーは敵のギャング集団に囲まれマシンガンで蜂の巣にされる。
それでもトニーはこう叫ぶ。
「俺はまだ立ってるぞ!!」
トニー・モンタナはガッツだけでのし上った男だ。
簡単には倒れない。
不遇の二人の男が、ガッツを込めてこの映画を作った。
評論家達はそれをボロクソに叩いた。
しかしそれを観た観客達はトニー・モンタナから、ブライアン・デ・パルマとオリバー・ストーンから、ガッツをもらって映画を支持した。
そして40年近く過ぎた今でもこの映画は立っている。
今も多くの武器なき人々にガッツを与え、ギャング映画の金字塔として立ち続けている。
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