共演女優・香川京子、司葉子が語る三船敏郎の気配りと気遣い

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共演女優が語る三船敏郎

スター街道を着実に進み、国際的にも認められる俳優となった三船。

 

デビューから10年を経て、「東宝のニューフェース」から、「日本を代表する俳優」へ成長していった。

 

海外からの出演依頼も増え、昭和36年には、初の海外進出となるイスマエル・ロドリゲス監督のメキシコ映画『価値ある男』に出演、。アカデミー賞外国語映画愚門にノミネートされた。

 

さらに、昭和42年には本田総一郎をモデルとした役でジョン・フランケンハイマー監督のカー・アクション映画『グラン・プリ』に出演。ジェームス・ガーナーやイブ・モンタンらと共演し、ハリウッド進出を果たした。

 

だた、どれほどの大物になろうとも、三船の人への接し方は変わらず、むしろ細やかな気配りと気遣いの人になっていったという。

 

最も身近で三船に接していた共演者たちは、三船敏郎という人物をどう見ていたのだろうか。

 

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女優・香川京子が見た三船敏郎

三船が黒澤監督と組んで映画は16本。その中でもっとも多く共演したのは香川京子で、次が司葉子である。他の監督による作品をくわえると司とは13本、香川とは12本共演している。

 

香川京子は、三船との共演作では『悪い奴ほどよく眠る』が特に思い出深いという。

 

この映画は黒澤がプロダクションをはじめた第一回の作品である。

 

私は黒澤組の時は緊張して、あまり三船さんとお話することはなかったんです。でも、ロケに行ったときは一緒にお食事したりして、そんな時間に三船さんが冗談をおっしゃって、結構面白い方だなと思いました。

 

『悪い奴ほどよく眠る』の撮影のとき私は、車の事故で顔に怪我をしてしまって、そのときは血が流れ落ちるのを見て、『ああ、もうこれで女優はできない』と思いました。

 

でもすぐに病院に運ばれて、傷を縫って頂いたんで、軽くで済んだんですけど、小さな病院の中に取材の方が集まってこられたみたいで。

 

それを三船さんが病室ドアをの前に立って全ての取材をお断りしてくださったと、後で聞きました。三船さんってそういう方なんですよ。人のために一生懸命になってくださって。

 

他にも、ロケバスに衣装さんが大きな重い行李を積み込むとき、三船さんがヒョイっと持ってくださったり。

 

だから撮影所では三船さんは、特にメイクさんとか衣装さんには人気があって、女性ファンが多かったです。久我さん(久我美子)もおっしゃってましたね。『あんなに周囲に気配りしてたら、お疲れになっちゃうんじゃないかな』って。

 

 

三船さんと演技について議論したりは一切なかったです。ただ、脇から拝見していたんですけど、黒澤監督と三船さんの信頼関係を感じたことはありました。

 

黒澤監督は厳しい方ですが、わりと人の意見はお聞きになる方なんですね。女優のお芝居も、特にこうやってとはおっしゃらないの。だから、とても難しい面もありました。

また、彼女が三船の演技について関心したのは、『天国と地獄』でのあるシーンだと言う。

 

刑事役の仲代達矢が、犯人に警察が介入していることを知られないために、部屋のカーテンを閉めて隠れているシーンだった。

 

三船さんが、刑事と何か会話しているうちに興奮して、思わずカーテンをパッと開けたんです。次の瞬間には慌てて閉めるんですけど、あれは三船さんがお考えになったアイデアなんです。

 

その行為で、あのときの彼の(役柄)心情が見事に表現されていたんです。私、あのとき凄く感心したんですよ。やっぱり三船さんは凄いなぁって。

さらに三船は、撮影の最中に、香川が自然に演じられるように気遣いをみせたという。

 

誘拐犯から電話が掛かってくるシーンで、三船の背後にいた香川が電話に耳を傾けたとき、黒澤監督から「逆だよ」と注意された。そのとき何が逆なのか分からなかった香川であったが、三船がこっそり小声で「体を逆にしたらいいんじゃないの」と、彼女に教えたという。

 

この作品は毎日映画コンクール・日本映画賞、NHK映画祭・最優秀作品賞の受賞、エドガー・アラン・ポーなど高い評価を受けた。

 

三船さんって生前のインタビュー記事を読み直してみたんですけど、『そりゃあ、こんあ台本貰ったら研究しますよ』とはお話になってたけど、あとで自分はこれだけの研究をしたとか、努力したとか、何も口になさらなかった。本当に謙虚な方でしたね」

 

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司葉子が語る三船敏郎

また女優では、香川京子と同じく、三船と共演作が多かった司葉子は、

 

「大先輩がニューフェイスの面倒をみるという形で、労っていただきました」という。

 

私が東宝に入ってからの三船さんは、時代劇の出演が多くて、刀を差した侍に成りきってしまわれるので、ちょっと恐かったです。

 

その反面、素の三船さんは本当に優しくて、気配りの方でした。例えば、私たちがロケに行って、出番が来るまで立ってまっていますよね。

 

そうすると三船さんは、どこからか椅子を探してきて、『おい、葉子ちゃん、座れよ』と勧めてくださるの。付き人がいなかったから、ご自分の椅子はご自分で持っておられましたね。

 

気配り、気遣いの人・三船敏郎

三船敏郎の気配りは男女に関係がなかった。

 

あえて言えば、女性を、それが女優であろうと、付き人であろうと、スタッフであろうと、立たせておくことに気をかけた。

 

まずは自分の椅子を勧め、足りない時は椅子を探して、座らせようとした。

 

晩年、長男の史郎と立食パーティーに出かけたときも、見ず知らずの女性が会場内で立っていると、「これにお座りなさい」いって勧め、自分は体力が弱っているのに、壁際に太刀、姿勢を正した状態で、会の進行を見守っていた。

 

史郎は「父はいつも背筋を伸ばし、直立不動のような姿勢を保っていたので、実は腰を痛めていたのですが、人には気づかれないようにしていましたね」と明かす。

 

司葉子は「三船さんならありえますね」と同意して続けた。

 

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三船さんとの本格的な共演は昭和43年の稲垣浩監督の『日本誕生』でした。

 

それで阿蘇にロケに行ったとき、スタッフの方の実家という旅館に泊まったんです。

 

ロケ費用では食事も豪華なものは出ないので、三船さんがスタッフを気遣って、炒め物を作ってくださったんです。みんなで食べれば臭いが気にならないからって。

 

天候が悪くて撮影が出来ないときは、三船さんが言い出して、ダンスパーティを開いたりして。

 

三船さんは照れ屋さんだとは思うんですけど、ちゃんとエレガントに踊れる方なのに、ダンスを普通に踊らないの。

 

相手をぶんぶん振り回して、壁にぶつけそうになったり、でも、そういうときはちゃんと相手の頭が壁に当たらないように、自分の手を添えて守っているの。

 

私がそのダンスの相手でした。旅館は阿蘇の中腹にあったんですけど、夜中になると『バカヤロウ!』って発生練習するみたいに吠えてらっしゃいましたね。

 

さらに司は自分が妊娠していたときの、三船の心遣いも忘れなれないという。

 

テレビの『大忠臣蔵』に出演していたとき、私は三船さんの妻の役を演じていたんです。その時は妊娠7か月ふらいで、セットの中でふと転んだの。そしたら、三船さんが周囲のスタッフを怒ってね。『転ばしてはいかん!』と大声で。

 

私の方はちょっと転んだだけなので、たいしたことはなかったんですが、三船さんは『転んじゃだめなんだ。なぜみんなもっと気を付けないんだ!』ってそのくらい神経を使ってらした方なの。私が妊婦であることをスタッフは知っているのに、対処しないことを怒る方なんです。

 

※サムライ評伝 三船敏郎(文春文庫)より抜粋

 

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