賛否両論「生きものの記録」
1955年、原水爆の恐怖を描いた「生きものの記録」を製作。
核兵器の恐怖に狂っていく老人を主人公にしたドラマである。
志村喬が演じるかと思いきや、主人公の老人は35歳の三船敏郎に振り当てられた。
三船の老け役はちょっと無理があるように思われたが、生気あふれ、次第に狂っていく老人を迫真の演技でやり遂げた。
三船はこの役について「あのおやじ(主人公)の気持ちがいまだに俺にはさっぱりわからない」と云ったという。
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この映画でも前作で使い始めたマルチカム撮影を本格的に取り入れた。
マルチカム撮影というのは、複数のカメラが同時に回ることである。
黒澤はマルチ方式で撮影したラッシュを観て、
「今まででは考えられないような画面ができる。俺は今まで正面ばかり撮っていたような気がするね。変な切れ方、背中が芝居しているのが特におもしろい。」※3と語っている。
蜘蛛巣城
1957年、シェークスピアのマクベスを原作にした戦国絵巻「蜘蛛巣城」を製作。
黒澤はこの映画でやりたかったことは、マクベスを時代劇化するということと、映画に能を取り入れ、人間が持っている根本的な弱さを能の表現様式で演出できないか?ということであった。
堀川氏著書より
「蜘蛛巣城」はクロさんの後々の作品に大きな影響を与えている。
クロさんは何度も言っていた。
「能は《静》だというだろう。こりゃ大きな誤解なんだ。
《静》の中に物凄いエネルギーをためているんだ。
だから見る側はそれに魅せられて充実感を味わえるんだ。
そのエネルギーが爆発したときは物凄いんだ。
びっくりするほど、激しく速いんだ。俺は能に《静》と《動》の落差をいつも観ているんだ。
※3
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また作家の小林信彦氏は著書でこう語っている。
初見の私の感想を一行で云えば、「マクベスを題材にして様々な実験を試みている。」
といったものだが、人物像の掘り下げよりも、監督の華麗なテクニックに酔わされる、というのがDVD版を観終わっての感想だ。
「七人の侍」で試みた馬の扱いもここでは完璧である。志村喬、三船敏郎、千秋実の3人は「七人の侍」のときに、一頭の馬を買って練習したほどだから、千秋の馬術もあっと思わせるものがある。
とはいえ、この映画の最大の成功は山田五十鈴に浅茅(マクベス夫人)を演じさせたことにある。
能舞台を思わせる広間で、明らかに能面のメイクの山田五十鈴がすり足で歩く。
野心的なマクベス夫人をこういう作りにし、手を洗うしぐさを繰り返させる。浅茅とのシーンでは、三船敏郎も能のように、キャメラに向かって歩く。
「マクベス」→「蜘蛛巣城」の主役たちは、我々には感情の移入の仕様がないのだから、能の様式を全面的に取り入れるしかない。
※1
有名なラストシーン、豪雨のように降り注ぐ矢から逃げるシーン。三船の顔は、演技ではなく、本当の恐怖の顔だという。
理由は唖然、本当の矢が射られていたからである。
「人物の前や後ろに相当距離をおいて射るんだ。それを望遠レンズで撮っているから、ぐんと距離感が圧縮されるわけ。目印をつけて、それをちゃんとした弓の師範の人が狙っているんだから。三船クンの首に矢が刺さるシーンはそうやって撮ったうちの、首の近くを矢が遠るショットに、作り物の首を貫通した矢を三船がつけたショットをつないだわけ。三船クンもさすがに怖かったらしいけどね。そういうのが黒澤は人間を本当の矢でブスブス射っている、なんて伝説になるんだね。ちゃんとやっているんだけど。」
※『キネマ旬報』 ’76・新年特別号初出
実際に撮影が終了した後、三船は黒澤に「俺を殺す気か?」と怒鳴ったとのことである。
どん底
続いてゴーリキーの劇曲「どん底」を江戸時代を舞台に映画化。
「どん底」は帝政ロシア末期の1902年に発表された劇曲。
これ以上は汚くならない木賃宿が舞台の群集劇で、封建社会のどん底から這い出せない人々の絶望や愛憎を描いている。
この作品では製作も黒澤が務め、シナリオは小国英雄と共作で2週間で完成。
撮影はオープンセット1つに室内セット1つでマルチカム方式で撮影、リハーサルも入念に行なった為、一ヶ月で終了という驚異的なスピードでクランクアップした。
「七人の侍」「羅生門」の成功で得た黒澤明というブランド、そして更なる映画への愛を追求する完璧主義な仕事っぷりから、次第に周りは尊敬の念と揶揄を交えて「黒澤天皇」と呼んでいく。
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脚注
※1 文藝春秋発行 小林信彦著書 「黒澤明という時代」より抜粋
※2 やのまん発行 塩澤幸登著書 「黒澤明 大好き!」より抜粋
※3 毎日新聞社発行 堀川弘通著書 「評伝 黒澤明」より抜粋
※4 河出書房新社発行 「黒澤明 生誕100年総特集」より抜粋
※5 文藝春秋発行 田草川弘著書 「黒澤明VSハリウッド トラ・トラ・トラ!その謎のすべて」より抜粋
絵画に目覚めた少年時代1910年、父・勇と母・シマの4男4女の末っ子として東京都に生誕。父は現在の日本体育大学の理事をしていた。1916年、財界人や有名人の子弟が多かった森村学園の付属幼稚園に入園。しかし数年後、父・勇が仕事での不正を追求され、理事を退く。私立の森村学園から公立の黒田尋常小学校に転校...
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