黒澤明の少年時代 〜関東大震災の被災とロシア文学への心酔〜

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黒澤明 生誕から少年時代

絵画に目覚めた少年時代

 

1910年、父・勇と母・シマの4男4女の末っ子として東京都に生誕。
父は現在の日本体育大学の理事をしていた。

 

1916年、財界人や有名人の子弟が多かった森村学園の付属幼稚園に入園。

 

しかし数年後、父・勇が仕事での不正を追求され、理事を退く。
私立の森村学園から公立の黒田尋常小学校に転校する。

 

小学校時代は気が弱くて、よく泣いていたという。
小学校3年生のときに図画の授業で書いた絵が、個性的すぎてみんな笑われたが、
担任だった立川が褒めてくれたことをきっかけに、絵画に目覚めた。
黒澤は後に「立川先生というのは忘れることのできない、大事な人だった」と語っている。

 

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その後中学(現在でいう高校)の受験に失敗、そこで「理科系統は駄目だ」と悟る。
中学時代はも猛烈なイタズラもやりつつも、読書に没頭した。
学校では先生の目を盗み、家では親の目を盗んで本を読んだ。

 

ドストエフスキーやトルストイなどのロシア文学に夢中になる

 

ドストエフスキーやトルストイのロシア文学に心酔し、人生観、倫理観の形成に多大な影響を受ける。
学校の学友会誌に作文を投稿し、国語教師に創設以来の名文と絶賛された。

 

黒澤明 ロシア文学

 

父が現在の日本体育大学の理事をしていたということで、いいところのボンボンとして生まれた訳ですね。

 

しかし、父が理事を事実上解任されてからは、経済的にもちょっと苦しくなったということでしょうか。
私立から公立へと転向していますからね。

 

後に黒澤は「白痴」でドストエフスキー、「どん底」でゴーリキーの原作を使っているほか、その他数々の作品からもロシア文学の影響が見て取れます。

 

兄の丙午の存在

関東大震災での兄とのエピソード

黒澤は兄の丙午(へいご)に多大な影響を受けたという。

 

関東大震災の直後、兄に連れられ焼け跡を見に行く。
おびただしい数の死骸を前にして「明、よくみるんだ。」と言う兄・丙午は一日中明を連れまわした。

 

はじめは怖くて仕方がなかった明も、死骸を嫌というほど見すぎて不思議と平静な気持ちになっていく。
「怖いものに目をつぶるな。よく見れば怖いものなんてない。」

 

彼は兄に連れられていったこの経験から、「よく見る」ことの重要さを学び、子供ながらに大人顔負けの人間観察力、洞察力を持ち合わせてゆく。

 

関東大震災と黒澤
関東大震災

 

この体験がのちの黒澤作品に及ばした影響は計り知れないと本人が語っています。

 

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映画弁士になった丙午

丙午は学業も優秀で黒澤家の期待の星というような存在であったが、
中学受験に失敗した後は、勉強がおろそかになり、外国文学や映画に傾倒していったという。

 

丙午は20歳にして当時の外国映画ファンにとっては聖地でもあった「シネマパレス」で主任弁士になる。

 

弁士というのは映画館のスクリーンの横で無声映画にセリフやナレーションを入れて、映画を楽しめるように盛り立てる人のことである。

 

この兄の影響を受けて明もロシア文学や映画にはまっていくことになる。

 

また父・勇も外国映画を見ることを積極的に許したという。
こういった環境が後の黒澤を形成していくことになる。

 

黒澤にとっては兄の丙午が憧れであり、最も青年期に影響を受けた人であったのでしょう。黒澤と同じく、何らかの才能をもっていた人であったことは間違いありませんね。

 

 

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