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三船敏郎のハリウッド価格を決めた男
昭和39年当時、東宝は国内だけではなく、ホノルル、サンフランシスコ、ニューヨーク、ロサンジェルスに直営館を持っていた。
ロスでの直営館『東宝ラブレア劇場』の運営を任されていた渡辺毅は元東宝撮影部の助監督。
三船の海外映画のギャラの基準を作ったのが、この渡辺毅である。
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ストライキを起こし、お荷物社員として左遷
撮影所に入って5年目でしたか。私が首謀者になって、ストライキをやったんです。東宝の争議は12年ぶりでした。
私は先頭に立って赤旗を振り、会社の方針に楯突いたわけですから、本来なら解雇されるところだったんですが、沖縄に飛ばされました。
沖縄には女性が経営している東宝直営館があり、渡辺はそこの支配人になった。
支配人といっても、主な仕事は売上げを誤魔化されないように見張るチェッカーの役目。
しかし渡辺はチェッカーだけではなく、映画館の収入を増やすために、風呂屋に映画のポスターを貼ったり、街頭でビラを配ったり、サンドイッチマンをするなど努力をした。
おかげで収入は倍になったという。
この努力が認められたのか、約一年半後、渡辺はロサンゼルス行きを命じられる。
ロスで三船敏郎のイベントを開催
渡辺は東宝のロサンゼルス支局長となり、東宝直営館『東宝ラブレア劇場』の運営を任されたのである。
東宝の直営館だったので、黒澤監督の作品ももちろん上映していたのですが、前年の『用心棒』が大ヒットしたので、ロスのファンたちは次回作の『椿三十郎』を心待ちにしていました。
そこで私は、三船さんをファンサービスと作品のプロモーションを兼ねてロサンゼルスに呼び、舞台挨拶して貰おうと考えたんです。
渡辺の企画に乗ったのがフジテレビで、小川宏が映画スターたちにインタビューする『スター千一夜』という番組と組むことになった。
その番組プロデューサーが「三船敏郎とハリウッドスターの対談を撮りたい。5人ほど集めてくれ。」というので、ロサンゼルスに行って、なんども三船さんの通訳をしていた高美以子さんに相談しました。
三船さんの運転手は、UCLAで映画を学ぶために留学していた飛鳥井雅章君に決めて、スターたちの交渉にあたったんです。
最終的に揃ったのが、
チャールトン・ヘストン
トニー・カーチス
バード・ランカスター
ナタリー・ウッド
ジョン・カサベテス
の5人でした。
また三船の舞台挨拶は5日間と決まり、『東宝ラブレア劇場』で『椿三十郎』の公演が始まった。
映画館はあの三船敏郎が来るということで大入り満員であった。
5日の間、三船は昼は『スター千一夜』の対談収録、夜は舞台挨拶と多忙な日々を送っていた。
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ハリウッドの重鎮ザナックからの依頼
そんなある日、20世紀フォックスのリチャード・ザナックというプロデューサーが訪ねてきて、今度カークダグラス主演の『カスター将軍最後の日々』という映画を撮るので、三船さんにぜひ出演してほしいと頼んできたんです。
リチャード・ザナックとは、ハリウッドの大物プロデューサー、ダリル・ザナックの息子である。
『トラ・トラ・トラ!』のプロデューサーとして、黒澤明とも関わった人物である。
映画における三船の役名はジェロニモ。カスター将軍と戦い、敗北するインディアンの長だった。
その案件を渡辺から聞いた三船の答えは「イエス」だった。
ギャランティをめぐる駆け引き
リチャードさんにギャラを聞かれたので、私が「三船さん、東宝では一本いくら貰っているんですか」と聞いたら、600万とか言ってましたね。でもドルに直すと安いわけですよ。2万ドルいかないわけですから。
僕は天下の三船敏郎が2万ドル以下では不味いんじゃないかと考えて、そのままの気持ちを三船さんに話したら、ご本人が、「今まで日本人で一番高いギャラを貰っていたのは誰なのか聞いてくれ」というので、リチャードに尋ねたら、即座に早川雪州が『戦場にかける橋』に出演した時で10万ドルだ、と答えたんです。
三船の返事は「じゃあ、俺は早川雪州の倍の20万ドルと伝えてくれ」というものであった。
当時の東宝映画の一本あたりの製作費は2500万円前後であった。
1ドル360円の当時なので日本円に換算すると、20万ドルは7200万円ということになる。
いくら三船敏郎の名前がハリウッドで知れ渡っていようとも、この話はまとまらないだろうと、渡辺は考えた。
そして、時を同じくして別の話が舞い込んでくる。
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『グラン・プリ』の依頼
バート・ランカスターとの対談を彼の自宅のプールサイドで撮っている時に、真っ赤なスポーツカーに乗って、ジョン・フランケンハイマー監督がやってきた。
彼はバード・ランカスターと『五月の七日間』を撮り終えたばかりだった。
対談収録が終わり、三船とバート・ランカスターにフランケンハイマー監督が加わって、次回作の話になった。
三船はリチャード・ザナックとの件を考えて、次回はハリウッド映画に出演するかもしれないと監督に話した。
そこにさらに加わったのが『五月の七日間』のプロデューサーのエドワード・ルイスである。
ルイスは三船に丁寧にあいさつをして言った。
「次回私たちはF1レースの映画を作ります。その中に本田宗一郎をモデルにした日本人が出てくるのですが、三船さん、あなたがやりませんか?」
三船は即答を避けたが、帰りの車の中で渡辺は三船に話した。
「今日あったジョン・フランケンハイマーは今、売り出し中の新鋭監督です。彼と組んで決してマイナスにはならない。
これからは若くで元気な才能と組んで、世界に出ていくのもいいんじゃないでしょうか。昨日のフォックスの話は、主演のカーク・ダグラスに負けるインディアンの役でしょう。
それよりも、シネラマの大画面で展開するF1レースと、本田宗一郎の話の方がスケールも大きい。若者にも受けるでしょう。よく考えてみてはどうですか。」
渡辺の強気の吹っかけ
渡辺は三船を本気で説得する気でいた。
三船の将来を考えたこともあるが、帰りの車に乗る前にエドワード・ルイスから三船のギャラについて聞かれ「三船敏郎のギャラは30万ドル。それ以上でもそれ以下でもない」と吹っかけておいた。
そのときのエドワードの反応が潔いものだったからだ。ギャラの面で見ても、こちらの話の方が魅力的だと判断したからである。
このとき三船敏郎44歳、渡辺は32歳。三船は渡辺を信じて交渉を任せた。
それから3か月後、三船の元に『グラン・プリ』のシナリオが届き、ギャラは30万ドルという破格の契約で出演が決まった。
当時のレートで換算すれば、1億800万円である。
三船はその後も外国映画に次々と出演を果たす。その際のギャラの最低ラインが30万ドルであった。
私は『東宝ラブレア劇場』に4年ほどいて帰国しました。昭和43年から東宝テレビ部のプロデューサーになりました。
会社にいると、三船さんたちが重役たちに挨拶する前に、私のところに顔を出してくれるのです。重役たちになぜなんだ?と聞かれました。
三船さんは、私がギャランティの交渉をしたことを忘れず、ずっと感謝してくれていたんです。


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