黒澤明とトラ・トラ・トラ!語り継がれる信じ難い事件簿たち

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トラ・トラ・トラ!撮影で起こった奇怪な黒澤事件

照明器具落下事件

黒澤明  トラ・トラ・トラ!

 

12月4日、プロデューサーのエルモは9時に撮影所入り。スタッフは準備に余念がない。しかし黒澤はまだ来ていない。

 

彼は前夜から今朝まで酒を飲み続け、睡眠薬も服用。現場に現れたと思ったら機嫌が悪く、カリカリしていてスタッフを怒鳴りつける。スタッフは対応に戸惑う。

 

今日も現場を見学しようと午前中からやってきた社長のダリルだが、ステージ入りできる状態ではない。

 

待ちぼうけで4時間もエルモに事務所で雑談。ついにしびれを切らした午後2時30分青柳に、「ステージ見学に連れて行け、なぜ見せないんだ」と詰め寄ったが、全く説明がない。

 

しばらくして、青柳から「照明器具が落下する事故があった」と連絡を受ける。

 

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午後4時、本日分の撮影中止決定。今日はみられないと諦めて、ダリルはホテルに引き上げる。

 

午後5時、エルモは日米合同のスタッフ会議を採集する。
青柳に情報が集まりすぎて、スタッフ間の意志疎通がうまくいかず、このままでは映画製作が破綻すると考えた為である。

 

スタッフ全員で情報を共有、交換し、トラブルに対応していく。その為には情報の流れをよくするキーパーソンを設定する必要があるとエルモは考える。

 

会議ではスタッフからは、撮影機器の操作方法、ラッシュフィルムの扱い、日々の工程などに関して、多くの質問がでた。

 

一番の問題は黒澤に直接質問が出来ないことだ、という声が上がる。

 

会議の途中で黒澤はやってくるが、部屋には入ってこない。彼はその場にいる人々を見るとと嫌悪感をあらわにし、背を向ける。それを見てエルモは、黒澤と青柳のスタッフの間に問題があるに違いないと確信する。(そう予測していたエルモは、このスタッフ会議に黒澤を呼ばなかった)

 

会議でのエルモの結びの言葉は以下の通り。

日米スタッフを信頼している。最新機器の操作についての質問があればフォックス社の専門家に聞いてもらいたい。

 

日本の映画製作の現場のしきたりや習慣などに干渉する意図は全くない。現場の問題はその都度解決していく。

 

善意と共通の目的があれば、日米が歩み寄ることで問題は乗り越えれるはず。

と力強く述べたところで、出席者たちも納得して散会となった。

 

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夏服事件

12月6日、プロデューサー・エルモは朝から東洋現像所で技術面の打ち合わせを行い、その後青柳と打ち合わせを行う。

 

青柳は、東映京都スタジオを黒澤プロダクションが使用するにあたっての、ステージレンタルや、製作スタッフ雇用をめぐる契約交渉経過と結果をはっきり言わない。

 

撮影が既に決まって5日目なのに「まだ交渉中」との説明に、エルモは不信感を覚える。

 

リハーサル中、山本司令長官の衣装の夏用軍服が気になった黒澤。
夏服の勲章をはずすと、縫い後が穴となって空いているのが気に入らない。

 

そこで服の交換を命じたところ、スペアが1着しか準備されていないことが判明。その夏服にも勲章の縫い穴が空いていた。
黒澤キレる。「撮影に際して、衣装は同じものを3着作っておくのが当たり前」

 

しかし、衣装担当のセカンド助監督の後藤俊夫が前もって3着用意しようとしたところ、黒澤本人から、「1着だけでよい。2着は取り消し。」と言われた経緯があったらしい…

 

それを後藤の判断で2着用意していたのだが。

 

「変えろ。新しいものを今から2着作れ。全ての軍服は3着作れ。」とキレる。

 

チーフ助監督が、北海道にいる佐藤B班監督に電話する。助監督全員が、黒澤からステージ立ち入り禁止を言われてしまった。どうすればよいか。

 

それを受けて佐藤監督は急ぎで北海道での撮影を終わらせ、京都に向かう準備を始める。

 

ダリル社長、この日京都を離れ、東京経由で帰国の途に着く。

 

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監督のこだわりとスタッフの離反

 

ダリル社長、エルモPの両名が日本を離れ、京都の撮影は2週目に入る。
相変わらず素人俳優の演技は黒澤を満足させることは少ない。
その反動というわけでもないだろうが、美術、大道具、小道具へのこだわりと要求はいつものようにエスカレートする。

 

伝説の「果たし状事件」や「カーテンのしわ事件」「本棚事件」などを次々に起こす。

 

そして不眠を理由に宿で深酒をし、朝、撮影現場に連絡もなしに来なかったり、来ても酒のにおいをさせていることが増える。

 

ダリル、エルモの目がなくなったことでタガがはずれた黒澤、彼は1人カラ回りし、スタッフは右往左往して彼からますます離反していく。

 

ある朝、心身ともに疲れきった黒澤は倒れ、京都大学付属病院に緊急入院。北海道にいた第二班佐藤監督が現場を心配して急遽京都入りする。

 

撮影は遅れ始め、ハワイで米側撮影準備に奔走するエルモと南仏にいるダリルは、京都からラッシュフィルムが届かず、やきもきする。

 

68年当時、東映京都撮影所では任侠映画が数多く製作されていた。

 

そのため着流し姿の役者や本物と思われるやくざが所内を歩いている。

 

黒澤はそれを嫌い、また同時に自分が襲われるかもしれないという恐怖を覚える。なぜ?笑
その不安が高じた結果「ヘルメット、ガードマン要求事件」が起こる。

 

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果たし状、カーテンのしわ事件

果たし状事件

 

12月9日、休日返上で午前から海軍病院での撮影。
助監督は全員現場に復帰。撮影途中で、カチンコの叩き方が悪い撮影助手に黒澤が激怒。

 

手にした脚本を丸めてその男を叩き、「クビだ」と叫び、引き続き助監督たちに説教をする。相当たちが悪い。

 

小道具として枕元に置いてある手紙を、撮影の合間に黒澤が手にとって中身をチェック。宛名はすべてちゃんと書いてあったが、その中の一通にやくざの「はたし状」が入っていることに気付いた黒澤は激昂。

 

「助監督全員横一列に並べ。足を開け。歯を食いしばれ。大澤、殴れ」と叫ぶ。

 

それに対し、「殴れません。監督、僕の責任です。僕を殴ってください。」と大澤チーフ助監督。

 

物も言わずに黒澤はその場を離れ、1人スタッフルームで涙をこぼす。以後大澤は出入り禁止となる。うーん、やばいですね。

 

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カーテンのしわ事件

 

海軍病院にカーテンに、買ってきたばかりであるが故の折りしわがあることに気付く黒澤。

 

「これでは撮影出来ない。こんなことはかつての黒澤組ではなかったこと。直しておけ。」

 

と現場スタッフを一喝。その日の撮影は中止となる。撮影が進まない…

 

黒澤倒れ入院

 

12月11日、黒澤が前日のうちに、セットの手直しを命じていた。
その作業は済んでいたのに、黒澤は終日ステージに現れない。

 

撮影スタッフは状況をまったく知らないまま、待ちぼうけをくらう。

 

実は黒澤はその日の早朝6時に倒れ、急患として京大付属病院に搬送されて夜まで病院で休養していた。診察の結果はノイローゼ。

 

黒澤現場に現れず。フォックスに無理難題を吹っ掛ける

 

12月12日、セットの建て込みは未完成のまま。
午前10時に22人の俳優と6人のエキストラは召集されてステージ入りする。
そのまま何もぜすに待機。黒澤は終日ステージに現れず、結局午後6時30分に解散となる。
照明とキャメラのリハーサルのみ行われた。

 

宿にいて休養中だった黒澤は青柳を呼びつけ、
「俳優たちに撮影所内を歩き回るやくざ姿、着物姿の役者を見せたくない。
20世紀フォックス社が、東映京都太秦ステージの半分を買い取るようにせよ。」
と無理難題を吹っかける。

 

スタンリー(日本側の製作担当者)は、現場の混乱と撮影の遅れの収集を自らつけることができず、ホノルル滞在中のエルモPに電話を入れる。

 

「クロサワの行動がアブノーマルで、現場スタッフとうまくいっていない。
撮影は12月9日から進んでおらず、全て不調。」と報告

エルモはこれを受けて状況報告を文書で送るようにスタンリーに指示。

 

佐藤B班監督、北海道の撮影を切り上げ、この日の夜京都入りする。

 

以上文藝春秋発行 田草川 弘著 「黒澤明VSハリウッド」より引用

 

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