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『羅生門』と三船敏郎
三船敏郎は生涯に150本の映画に出演している。
そのうち、黒澤明とのゴールデンコンビでの作品は16作品である。
『酔いどれ天使』『静かなる決闘』『野良犬』『醜聞』『羅生門』『白痴』『七人の侍』『生きものの記録』『蜘蛛巣城』『どん底』『隠し砦の三悪人』『悪い奴ほどよく眠る』『用心棒』『椿三十郎』『天国と地獄』『赤ひげ』
となっている。
最初の『酔いどれ天使』が三船敏郎28歳。最後の『赤ひげ』のときは45歳。この17年間で黒澤は「黒澤天皇」、三船は「世界のミフネ」と呼ばれる存在になり、日本映画の黄金期を2人で駆け抜けた。
この作品群のうち、日本映画の年間配給ランキングベストテンに入っているのは、
昭和29年3位 『七人の侍』
昭和31年2位 『蜘蛛巣城』
昭和33年5位 『隠し砦の三悪人』
昭和36年1位 『椿三十郎』
昭和36年4位 『用心棒』
昭和37年1位 『天国と地獄』
昭和40年1位 『赤ひげ』
映画史上に残る名作と言われている『羅生門』はランキングに入っていない。
『羅生門』は興行成績で言えば、全く失敗作であった。
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初めて世界に黒澤が認められれた作品『羅生門』
黒澤が初めて世界に認められたのは『羅生門』で、ベネチア国際映画祭・金獅子賞、アカデミー賞・最優秀外国語映画賞、イタリア批評家賞・外国語映画賞などを受賞しているが、日本ではキネマ旬報第5位、第一回ブルーリボン賞第4位と、評判はあまり良くなかった。
国内の映画評論家の中には「ベネツィアのコンクールなど権威がない」「あの映画はエキゾチックだから受けたんだ」など、こき下ろすものさえいた。
三船はこの国際的評価をどう捉えていたのか。
手元に”『羅生門』の思い出”と題された三船の直筆の原稿を紹介する。
戦後、イタリア大使館文化担当のストラミジョリ女史が、中断されていたベネチア映画祭が復活されるので、日本も何かを出品しないかと云うことで、東和の川喜多かしこさんと共に『羅生門』を選ばれ出品、日本では初めてグランプリを獲得したことは周知の通りです。
作品完成の時は、「こんなわけがわからないもの作りやがって…」と責任者が飛ばされると言う事もあり、当時はグランプリがなんだか分からず、ある新聞に数行の記事が出ただけでしたが、後になってなかなか値打ちのあるものではないかということで、「地獄門」「朱雀門」「表門」「裏門」と門流行りとなり、競馬の馬にも「なんとか門」というのが出てきたことを思い出します。
黒澤さんが映画作家として確固たるものを築かれた作品ですが、私は役者としてはまだ初年兵、今見ては冷や汗、あぶら汗をかいております。故人となった上田吉二郎さんは”ぐらんぷり”を獲ったが、みんなは”しらんぷり”と機会があるたびに絶叫していました。
検非違使をやられた、酒もたばこもやらない真面目を絵に画いたような加東大介氏も今はなく、かつての名作を見ると、個性と実力のある役者が少なくなったことを寂しく思います。
故人のご冥福を祈るとともに、今後とも本物の才能による「本当に価値かある作品」が創造されることを願ってやみません。
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女史が芥川に傾倒していたという運
黒澤明と三船敏郎が世界に認められたきっかけは、ずばりこの原稿出てくるストラミジョリ女史の目にとまったからである。
女史は戦後にイタリアから交換留学生として来日しており、京都大学で日本文学を研究していた。芥川龍之介の小説に傾倒していたことから『羅生門』を選んだという。
ベネチア国際映画祭への出品に際してはイタリア語版が必要で、当時大映の社長だった永田雅一は「また金が掛かるのか」と消極的だったが、女史から「私の方でその費用を負担してもいい」とまで言われ、渋々承諾したという。
まさに、黒澤明は女史に足を向けて寝れないであろう。
大映社長永田という男
大映の社長の永田はそもそも黒澤がこの映画の撮影に時間を掛け過ぎていると不満を持っていた。
現場に何度もやってきて「おい!黒澤君、いつになったら出来上がるんだよ!」と尋ね、黒澤が「天気が悪いんです」などと答えると、ふくれっ面して帰っていくのが常だった。
シナリオに「晴れ」と書いていれば、晴れの日にしか撮影をしなかった黒澤の頑固さに永田は腹立たしさを覚え、我慢を重ねていたのである。
だが、のちにグランプリ受賞の重大さを知った永田は
「ハラハラと涙が溢れた。ああこれが世界一の感激なんだな。そう思いながら私は泣けてきた。」
と回想している。
自分が『羅生門』を担当した撮影所の幹部に、散々嫌味を言った挙句左遷し、社員でもない製作者をクビにまでした男がである。
※サムライ評伝 三船敏郎(文春文庫)より抜粋


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