黒澤明「影武者」で世界的復活!「乱」は人生の集大成映画と言える壮大な戦国絵巻!

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クロサワ復活

影武者

 

ソ連に渡って制作した「デルス・ウザーラ」は世界中で評価され、復活の足掛かりをつかんだ黒澤は、次に壮大な戦国ピカレスクロマン大作「乱」を企画するが、制作費があまりにも巨額ということで、前哨戦として「影武者」を撮ることになった。

 

「影武者」>もまた予算が確保できず、制作が難航したが、黒澤を敬愛する「ゴッドファーザー」のフランシス・フォード・コッポラと「スターウォーズ」のジョージ・ルーカスが、20世紀フォックスに制作費を一部負担するように持ちかけて、予算が確保された。

 

「影武者」は主役が勝新太郎ということで、たいへん話題となったが、勝側からの「演技研究としてビデオカメラを現場に持ち込みたい」との要求を黒澤が断ったことにより、2人は衝突。結局勝は降板した。代役は仲代達矢が勤めた。

 

「影武者」は1980年に公開され、当時の日本映画の歴代興行成績を更新する大ヒット作となり、カンヌ国際映画祭ではグランプリ、英国アカデミー賞では監督賞、衣装デザイン賞等を受賞し、黒澤明が本当の意味で「世界のクロサワ」として日本国内でも認められた作品となった。

 

 

そして1975年から脚本に着手して足掛け10年、1985年26億円の制作費をかけた大作「乱」が公開される。

 

毛利元就の有名な三本の矢を下敷きに、シェイクスピアの「リア王」を戦国時代に置き換えた壮大な戦国合戦絵巻である。

 

黒澤はこの作品を「ライフワーク」と位置付け、「人類への遺言」であるともしており、まさに黒澤の人生観、芸術観、歴史観の集大成的作品である。

 

「天の観点から、人間のやっていることを(争いという愚かなこと)俯瞰の目で描いたという「乱」の主人公は黒澤本人を強く反映した人物設定であると言われており、黒澤自身も出演した宮崎美子にそのことを語っている。

 

エキストラは1000名、馬はアメリカから50頭を買い付け調教した。

 

鉄修理という重要な役は当初高倉健で設定されており、実際に高倉の自宅に4度も訪れて出演オファーを出すも、高倉のスケジュールの兼ね合いで実現しなかった。

 

「どですかでん」で音楽監督を務めた武満徹が本作品でも音楽を担当していたが、黒澤が武満の意向を確認せず、低音を強調する指示を出したことで、武満が激怒し、降板こそなかったものの、以後黒澤作品に参加することはなかった。

 

晩年

 

1990年、スティーブン・スピルバーグの仲介でワーナー・ブラザーズと契約を交わし「夢」を制作。

 

短編8話からなるオムニバス形式である。
アメリカのアカデミー賞ではアカデミー名誉賞を受賞。

 

そして、翌年の1991年に「八月の狂詩曲」、1993年には遺作となる「まあだだよ」を制作。
内田百聞の随筆が原作。監督生活50周年・通算30作品の記念作品であったが、興行的には失敗に終わった。

 

その後、山本周五郎原作の脚本を2本書き上げていたが、1995年に京都の旅館で転倒し骨折。

 

療養生活に入るが、1998年9月6日、脳卒中により死去。享年88歳。

 

同年10月1日、映画監督としては初の国民栄誉賞を受賞。
黒澤の残した2本の脚本、「雨あがる」は2001年に小泉堯史監督によって、「海は見ていた」は、2004年に熊井啓監督によってそれぞれ映画化された。

 

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脚注
※1 文藝春秋発行 小林信彦著書 「黒澤明という時代」より抜粋
※2 やのまん発行 塩澤幸登著書 「黒澤明 大好き!」より抜粋
※3 毎日新聞社発行 堀川弘通著書 「評伝 黒澤明」より抜粋
※4 河出書房新社発行 「黒澤明 生誕100年総特集」より抜粋
※5 文藝春秋発行 田草川弘著書 「黒澤明VSハリウッド トラ・トラ・トラ!その謎のすべて」より抜粋

 

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