黒澤明とトラ・トラ・トラ! 止まらぬ奇行についにクビ宣告が!

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黒澤演出に戸惑うフォックス。理解を示すも…

12月22日、黒澤はエルモを撮影現場に呼ぶ。
ステージ入り口からセットまで赤じゅうたんが敷かれ、ファンファーレが鳴り、スタッフは直立不動で、エルモを迎えた。

 

キャメラ脇の椅子までエスコートされたエルモは黒澤に、
「ヘルメットを着用してください。照明器具が落ちてくるかもしれません。」と言われる。
その途端、天井からエルモの足下に帽子が落ちてきた。

 

撮影テイクの前に、黒澤は必ずスピーカーからファンファーレを鳴り響かせる。そのスピーカーのスタンドを何度も動かして位置を変えさせ調節し、結局元の位置に戻す。

 

山本長官役の役者は、撮影現場まで、1分足らずのほんの短い距離しかないのにもかかわらず、車でやってくる。

 

入り口でファンファーレが鳴り、黒澤を含めたスタッフ全員が彼に対し敬礼を行う。
撮影が終わると、セットの外まで彼をエスコート。
ステージ入り口に横付けになった車に乗り込む際に、スタッフと黒澤は直立不動の敬礼で見送る。

 

そのあと黒澤が設営セットに戻ってくると、それに対して現場スタッフは敬礼で迎える。
これを他の役者に対しても行うよう黒澤はスタッフに強要する。

 

エルモは、黒澤の行動に違和感を覚えるが、彼の演出方法としてその真剣さは理解する。

 

そしてもう少し、黒澤に時間を与えて様子を見ようと心に決める。
その日の夜、製作本部長のリチャード宛に、
「クロサワは今日は目一杯働いた。この分ならいける。」とテレックスを打つ。

 

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壁塗り直し事件

 

12月23日、黒澤は前夜より一睡もせず、セット入り。
明らかに体調も優れず不機嫌や様子である。

 

リハーサルが始まってすぐに黒澤は、
「長官公室の壁の色がおかしい」と言い出しリハーサルをストップ。
セットの色をすべて塗り替えることえを命じる。

 

美術助監督が抵抗し、
「そんなこと今さら出来ない。辞めさせてもらう」と抗議すると、黒澤は自ら先頭に立って塗りなおし始めた。

 

他のスタッフもそれを見て何もしないわけにはいかず、スタッフ総出で塗りなおし作業に入る。

 

神棚にある「長門」の長官公室の白い壁は、実際に月一回は塗り直しされていた。
それに準じて撮影セットでも全部塗り替えるべきだというのが黒澤の主張であった。

 

エルモは撮影済みのシーンと色が変わってしまう、塗り直しは論外と必死で黒澤の説得を試みる。
しかし、黒澤は聞く耳をもたず、スタッフに作業の続行を命じた。

 

そしてまず、壁を黒く塗り始めた。
これにはエルモを含め、現場スタッフの多くも仰天。

 

色に厚みを出すために、まず下地に黒を塗るという「根来塗り」の手法をとったと思われるが、エルモはもとよりスタッフの理解を超えた神業だった。エルモは唖然とする。

 

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神棚事件

 

次に黒澤は、「長門」長官公室の神棚の壁がベニア板で出来ていたことに目を留める。

 

そして、扉はこんな安物ではなく、もっと本物の扉にしろ、と主張する。
美術監督の村木は、今から探すとなると最低2日はかかる、と抵抗。

 

黒澤は「柾目の一枚板をとにかく探してこい!」と言い放つ。美術スタッフは柾目板を求めて京都をかけずり回ることになる。

 

セットの壁壊し事件

 

黒澤は撮影セットの壁を壊して、2台のキャメラを置いてラフなキャメラリハーサルを始めるが、
直後に気が変わってもうひとつの壁を壊させ、その直前に壊した壁を
「作りなおせ」とスタッフに命令する。

 

屏風事件

 

夜になって黒澤は、「撮影セットを壊した壁を隠すための屏風を探して来い、ただし美術的価値のある屏風でなければダメだ。」とスタッフに命じる。

 

美術監督が手配したものと思われる立派な屏風が数時間後現場に搬入された。
黒澤は、自分は屏風に見入って感嘆の声をあげる。
「確かに神棚にある部屋にふさわしい素晴らしい屏風だ。天皇陛下にお目にかければ、きっと褒めてもらえる。ただちに梱包して皇居へ送れ。」と叫ぶ。

 

これにはスタッフ全員が吉本新喜劇ばりにズッこける。

 

この日黒澤は23時ごろまでスタッフを走らせた。
「もっと準備を完璧にしておかないと、明日の撮影はもっと苦労するぞ」と叫び続けた。

 

青柳がタイミングを見計らって黒澤を無理やりステージの外に連れ出し、そこでやっと作業終了。
疲労困憊したスタッフ全員から「こんなことは2度とご免だ」と声があがる。

 

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20世紀フォックスの決断

12月24日未明、エルモは上司リチャードに次のようなテレックスを送る。
「私がクロサワに賭けた全ての望みは無に帰した。」
これ以上クロサワに製作を続行させることは出来ない、監督更迭を検討するときが来た、とエルモは腹を決めていた。

 

電話でエルモはリチャードに「壁塗り直し事件」「神棚事件」「壁壊し事件」「屏風事件」など、23日の出来事をすべて話し、一刻もはやくクロサワを降板させる必要を説く。

 

驚いたリチャードはスタンリーと青柳からも直接事情を聞く。
青柳も、クロサワをこれ以上日本側の監督として続けさせることは絶対にできない、とリチャードに告げる。

 

リチャードはエルモ、スタンリー、青柳の話を聞き、解任を決意する。そしてエルモに向かって3つの指示をだす。

 

@クロサワを解任する。
Aこの映画の企画自体は続行する。
Bクロサワの名声を汚さない表現で事実関係をシンプルに新聞発表する。

 

リチャードは社長のダリル・ザナックにことの次第を報告。
急遽ダリル、リチャード、エルモの3人で国際三元通話で協議を行う。

 

この協議でダリルとリチャードは「トラ・トラ・トラ!」の企画を中止するとエルモに告げる。しかしエルモは猛反対する。

 

撮影開始以来、ハワイに拠点を置くユニットはすでにフル稼働しており、すべて予定通りに進行して、素晴らしい成果を挙げつつある。

 

日本に撮影現場にも有能な人材が集まっており、技術者も優秀で高い水準の仕事が期待できる。

 

問題はクロサワ一人であり、監督を更迭しさえすればすべて解決する。今ここで企画を全面的に中止することは、これまで好意的に協力してくれた日米両国政府にも顔向けができない、将来の関係にも悪影響が残ることは必至だ、と訴える。

 

結局両者折れず、結論は後回しになる。

 

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クロサワ解任

 

12月24日のクリスマス・イブの午後3時、エルモは黒澤の部屋に向かう。エルモはまず、

 

「少なくとも4週間の休養治療を必要とする」という診断結果を知らせた。そして、クロサワに直ちに仕事を辞めて東京に帰り、入院するように勧めた。

 

「これ以上撮影が遅れればこの映画製作全体が大混乱に陥るので、監督を更迭して撮影を継続することになった、これはフォックス社の最終決定である」と告げた。

 

クロサワは「どうしても監督をクビにするというなら、腹を切って死ぬ」と言ったという。

 

およそ2年もの間、歴史に残る偉大な映画を作るという夢を共有して、
夜を日に継いであれぼど苦労を共にしたエルモとクロサワ。

 

ホテルのロビーには大きなクリスマスツリーが飾られ、
色とりどりのイルミネーションがきらめいていた。

 

それはその時の私にとって、とても超現実的(シュール)な光景だったと
エルモは後に回想している。

 

 

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プロデューサーからクロサワへの手紙

クリスマス・イブの午後にクロサワに解任を言い渡したエルモはその日の深夜、
万感の思いを込めて一通の訣別の書簡をしたためた。(以下)

 

黒澤明様

 

あなたの健康状態が思わしくないことについて、私はこのところ、ずっと心配しておりました。
仕事上のストレスがあなたにとって耐え難いほどのものになっていることが、
誰の目にも明らかになったのは、10日前のことでした。
しかし、一週間ほど休養させれば、きっとあなたは活力を取り戻して再び仕事に戻られることを
誰もが信じ、一時製作を休止し、時を待ちました。
数日後、あなたを診察した3人の医師から、あなたに仕事を継続してもらうことが可能かどうか、
意見を聞きました。残念ながら、3人に意見は一致しませんでした。
3人の医師のうち、1人の意見によれば、あなたには疲労とストレスが蓄積しているが、
仕事を継続したいというあなたの熱意を制御することは不可能であるとのことでした。
従って、あなたが仕事を続けることは可能だが、ストレスや不安感がこれ以上蓄積することについては、
十分な警戒が必要だ、という意見でした。
別の医師は、あなたには4週間ないし8週間の休養が必要であると診察しています。
もし十分な休養をとらなければ、重度の神経症に陥る危険があり、
更に健康状態が悪化すればその障害が一生残る可能性もある、との意見でした。

 

これまで一緒に仕事をしてきた私の目から見ると、あなたは身体的にあまり強靭ではない、
見受けられます。
この仕事の重圧が必要以上にあなたを苦しめているという印象です。
明らかに、あなたは精神的なストレスを感じながら仕事をしておられ、
私の見るところ、あなたは意思の力だけで仕事を続けているようです。

 

第一回目の発作に続き、間をおかず第二回目の発作を見た今、
あなたには本格的な休養が必要であるとの診断を下した医師の意見に同意せざるを得ません。
あなたの家族、あなたの友人たち、そしてあなたの仕事、その全てにとって、
何より大切なのはあなたの健康であると私は考えます。
だからこそ、あなたは東京に帰り、十分に休養して頂きたいのです。

 

「トラ・トラ・トラ!」の製作は、あなたと私がすでに合意している指針に正確に準拠して
継続する所存です。
現有の製作スケジュールを維持しなければ、私にはこの映画の完成は保証できませんので、
あなたを更迭せざるを得ないのです。
このことについては、リチャード・ザナック氏とも相談し、すでに同氏の同意を得ております。

 

当面、日本側部分の撮影は短期間だ中止し、スケジュールを再調整した上で
後任の監督に通知することになると思います。
私自身は今しばらく当地にとどまり、あなたと私が合意し、
目指してきたことの精髄が損なわれないように万全を期します。
スタッフ、キャストをはじめ、全ての関係者は、この映画を卓越した作品として歴史に残すために
全力を傾注してゆきます。
あなたが「トラ・トラ・トラ!」で貫こうとした志を無にしないように全力を尽くす所存でございますので、
どうかご安心ください。

 

くれぐれもお体を大切に。ご幸運を祈ります。
この映画があなたにとっても誇りうる作品になるように努力します。

以上文藝春秋発行 田草川 弘著 「黒澤明VSハリウッド」より引用

 

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