黒澤明についた助監督たちが語る クロサワ体験記

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クロサワについた助監督たち

映画の現場で一番過酷なポジションとはいったいどの担当の人間だろうか?

 

答えは一目瞭然、助監督である。テレビでいうアシスタントディレクター、いわゆるADが映画でいう助監督である。

 

監督の現場の怒号は、役者やその他の技術スタッフなどにはほどんど向けられない。

 

基本的には監督が怒る相手は演出部の部下である助監督ということになる。

 

肉体的にも精神的にもそうとうブラックな仕事が助監督という仕事である。

 

理不尽極まりない要望に振り回されて、言い訳なんて絶対許されない。

 

クリエイティブな意見が無ければ、やる気がないと言われ、意見を言えば100年早いと言われるのが助監督。

 

それをクリアして晴れて映画監督となれるのである。

 

今回は黒澤明についた元助監督たちに、黒澤明の仕事や人間について語ってもらったのをまとめました。

 

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堀川弘通

クロサワさんの死の意味するもの

※4 河出書房新社発行 「黒澤明 生誕100年総特集」より抜粋

 

9月6日に黒澤さんが亡くなった。

 

それからは連日連夜のクロサワフィーバーである。

 

総じて「日本は『世界のクロサワ』を軽視して来た。本人が亡くなって初めて彼の偉大さに気付いた」という評価が多いようである。

 

ここに日本経済新聞10月25日のスクープ取材班の1ページ全面記事がある。

 

これによれば「ソニー、ホンダになれなかったクロサワ」という見出しで要約次の如く論じている。

 

クロサワは限定条件付きの天才で『トラ・トラ・トラ!』の失敗は、東宝撮影所と気ごころのスタッフが居なかったこと、有能なプロデューサーに恵まれなかったこと」の3点を挙げている。

 

またクロサワ本人はハリウッドで活躍した欧米一流監督が持つ経営者的感覚に欠け、『暴走機関車』『トラ・トラ・トラ!』の失敗で、「日本映画が米国と組んで海外進出する可能性も閉ざしてしまった。

 

「だがこれはクロサワ個人の罪ではなく、黒澤の失敗の背景に見えるものは米国に後れをとった日本の映像産業が今も抱える根本的な欠陥」と断じ、

 

「ハリウッドが大作に目を向けていた時、日本では金の掛かる黒澤を支えきれず、プロデューサーの育成も怠った。致命的なのは、企画力と応用力の弱さだ」

 

とし、ソニー、ホンダはその点で見事に成功した。

 

だが、日本の映像産業はせっかくの『クロサワ』を生かせなかった…

 

日経の記事の如く、日本の映画産業がソニー、ホンダの様に、企画力と応用力をフルに使ったとしても、

 

米国映画に太刀打ちできるものだろうか。私はそうは思わない。

 

音響機器のソニーは、その性能の良さ故に世界的になったのであり、ホンダの二輪車も四輪車も使い勝手の良さで世界的になったのである。

 

両者の企画力、応用力はその上に乗って「ソニーブランド」になり「ホンダブランド」になったのである。

 

映画はそういうわけにはいかない。

 

なぜなら、映画はその国の文化の成果であるからだ。

 

文化とは地球上でそれぞれの土地にくらす人々の「生きざま」のことを言う。

 

例えば日本文化とは、日本列島の上に日々生活する人々の習慣が伝統となり、今日に生きているものであり、心の持ち方も多様であり、生活も又多様である。

 

アメリカ映画が世界を制している、アメリカ文化が世界中の人々に受け入れられているからである。

 

しかし、世界中の人々がすべてアメリカ文化を受け入れているかと云えば、そうとも云えないのである。

 

日本には日本の分化があり、フランスにはフランスの文化があり、中国には中国の文化があるからである。

 

日本の映画産業がソニーやホンダのようになれと云っても、それは土台からして無理な話。

 

日本は日本のやり方で進むしかない。

 

それを教えたのが『クロサワ』映画ではなかったのか、と私は思う。

 

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小野田喜幹

『野良犬』の緊張感

黒澤プロが芝プリンスホテルで旗揚げしたとき、『暴走機関車』の企画が進んでいたが種々の事情により中止になり、『トラ・トラ・トラ!』の企画に移行した。

 

当時電通よりテレビ『剣』があったが、首脳陣は黒澤プロから分離してCALなる会社を立ち上げた。

 

私は『トラ・トラ・トラ!』には参加せず、『剣』の第一回作から監督としての立場をとったものだ。

 

『トラ・トラ・トラ!』の撮影中、黒澤監督に異常が来し、降板することとなり、舛田利雄・深作欣二監督にバトンタッチされたことは周知の如くである。

 

小国英雄、菊島隆三、橋本忍諸氏が黒澤明から離れていったのも軌を一にする。

 

3人の超一流作家を集め共作できたことは、日本映画界にとって稀有なことだった。

 

したがってその後のクロサワ作品の推移を知るには恰好の手掛かりではないだろうか。

 

映画『野良犬』のよって私は監督としての接点があった。

 

新東宝作品になるが故に、新米の私が新東宝演出部の代表として参加できたのだ。

 

祖師谷大蔵より会社のボンネットバスに乗り、現東映の大泉撮影所に出かける。

 

一週間宿泊の後、祖師谷にて解散というスケジュールっであった。当時の大泉は畠が多く全く郊外といった趣きであった。

 

バスの窓外を流れる真白な2つのパラソル。
酷暑の野球場の通路の蔭にたたずむ三船敏郎、志村喬。
光と影の強烈なシーン。
ストリップ小屋の千秋実のけだるさ。
大泉駅頭での三船と木村功との出逢い。
そして静かに聞こえる住宅地のピアノ。
その前の松林での壮絶な戦い。

 

エンターテイメントならではの連続だ。

 

三船、岸輝子の夜間オープンでの芝居では、極度の緊張感に叩きこまれる。

 

本番に及ぶこと30数回、何れととるか判断に決めかねたが、監督の大声だけが印象に残った。

 

前出の3人の作家と離れた後の監督は、全く変質した。

 

あの圧倒的な画は影を秘め、、嫌いなはずであったカラー作品が常を占め、やや独善的な傾向に走ったのではないかと愚考する。

 

私は活動屋の監督が好きだ。あの心躍る画。奥行きのある画。1カット1カットに緊張感あふれる画が好きだ。

 

世界のクロサワには権威は必要としないのではないだろうか。

 

大泉宿泊所の木製の階段をきしませながら、監督の部屋にビール瓶をお盆に乗せ、一歩一歩上がって来た三船敏郎氏の姿が未だに眼に焼きついて離れない。

 

田中徳三

『羅生門』

 

昭和25年の夏、黒澤監督は気心の知れている黒澤一家のスタッフも連れず、たった一人で大映京都撮影所へ『羅生門』を持って乗り込んでこられた。

 

当時の大映京都撮影所は一癖も二癖もある活動屋の集まりで、活気あふれる撮影所であった。

 

スマートで合理的な黒澤さんのホームグラウンドの東宝から、単身でこられた黒澤さんは、極道的雰囲気の濃いこの撮影所の体質に戸惑いを感じたに違いないであろう。

 

最初から何か裃をつけた固い身構えみたいなものが感じられた。

 

私はこの黒澤組に助監督の下っ端としてワクワクしながらつくことになった。

 

黒澤さんの第一印象は、自分の作品のためにはすべての人を犠牲にしても省みないという凄まじいばかりのエゴイスティックな制作態度である。

 

スタッフ、俳優のすべてのエネルギーを搾りとってゆくその姿は、正にエゴの塊でああった。

 

撮影はしわぶきひとつしない荘重ともいえる異様な雰囲気で始まった。

 

『羅生門』はクランク前から映画館での封切日は決まっていた。

 

『羅生門』はセットの撮影はない。カンカン照りが要求される森の中でのロケと、羅生門のオープンセットだけである。

 

このオープンセットは土砂振りの雨が必要であるが曇天でなければ撮影は出来ない。

 

天気に左右される撮影は当然スケジュール通りにいかない。封切日は追ってくる。

 

黒澤さんだから「お好きなようにどうぞお撮りください」なんて云う甘い大映ではない。

 

完璧主義者の監督のイライラが続く。それが怒声となってスタッフに向けられる。私には怒鳴られっぱなしで走り回った『羅生門』であった。

 

『羅生門』の撮影実数はたったの28日間であった。黒澤作品としては全く信じられない日数である。

 

「映画は監督だけで作れるものではない。スタッフ全員の協力で出来上がるものだ。」

 

これは映画創りの現場に携わっているものの実態である。

 

これが黒澤哲学になると、「映画は俺一人が撮っているんだ」ということになる。

 

スタッフ全員から絞り出せるものを、すべて搾り取るような貪欲なきびしさを見せながら、黒澤さんは京都を去っていった。

 

たった1本しかつけなかった黒澤さんであるが、私にはまったく強烈な印象と、忘れられない思い出が残った『羅生門』であった。

 

 

生駒千里

松竹大船黒澤組

 

黒澤さんは『羅生門』の後、松竹大船で『醜聞』『白痴』の2作品を作った。

 

『醜聞』の時は他の組の助監督とやっていたので、宿望のクロサワ作品につけたのは『白痴』であった。

 

準備の時から完成まで役一年間助監督として付いた。

 

常時岩波文庫の「白痴」上下を携帯し、セット撮影の時はトンカチとくぎ袋を下げて走り回り、撮影所に入って以来、あんなにも夢中で働いたことは」なかった。

 

クランク・インは雪の札幌ロケであったが、その人除けには驚いた。最初のカットはもちろんのこと、次の又次のアングルまで足跡を作ってはいけない。

 

有名な北大の並木道では私は一番ロングの一直線の果てで人除けをしていた。

 

そこは雪の吹き溜まりで「本番」の声で木陰に隠れたが全身雪の中に落ち込んだ。

 

「オッケー」の声が聞こえても、宇宙遊泳のように必死でもがき出た。

 

円山公園での夜の氷上カーニバルでは、前もって丸太を打ち込んでロープを張り巡らしたが、後から押す群衆の力でミシミシ鳴りはじめた。

 

やっと撮影を終えたが帰りがまた大変で、原節子さんのハイヤーはファンの殺到でボコボコになり、スタッフが棒を振り回して脱出した。

 

大船ではスクリプターはいない。助監督のセカンドの故小林桂三郎がやる。ロケには製作主任は来ない。

 

これはヘッドの野村芳太郎さんが仕切る。過労のため、故中平康は途中でリタイヤ。羨ましいのと今後3人でやる心細さで切なかった。

 

セットでも雪に悩まされた。大道具さんと野村さんと私では無理だったのでアルバイトの雪係りを頼んだ。

 

それより驚いたのは、黒澤さんに大船の助監督は怠慢だと言われたことだった。ショックだった。

 

「なぜですか」と質問すると「現場で監督に助言しない。自分の意見を出さないではないか」

 

これは大船では絶対出来ないことだった。

 

助監督には発言権はないのだ。だから助監督ではなく正式には監督助手という名称になっていたのだろう。

 

東宝では違うシステムで作品に参加しているのかと思うと羨ましかった。以後決心して努めて発言することにした。

 

それと映画は脚本、撮影、編集がそれぞれ3分の1ずつだという黒澤さんの見解は、その後終生忘れられない言葉となった。

 

山本迪夫

黒澤監督の麻雀

 

昭和31年4月、私は東宝撮影所に助監督として入社。

 

最初に編成されたのが『蜘蛛巣城』=黒澤組でした。

 

当時、東宝では新人助監督の一本目は勉強の為に製作助手を兼ねるのが決まりでしたので、

 

私の仕事は監督の送迎の配車、東京での昼食のセッティングと身辺の雑事、そして地方ロケ中の麻雀のお相手でした。

 

よくみんなから黒澤天皇のお守りは大変だろうと同情されましたが、撮影現場とは違う生のクロサワさんと接することが出来て、私は嫌ではありませんでした。

 

よく怒られもしましたが。

 

ロケが雨で中止になったある日、私が製作の部屋で麻雀をしていると、上家の根津主任の手がふっと止まって「来た…」。

 

耳を澄ますとドスンドスンと大きな足音が近づいてきて背後の襖がガラリと開きました。

 

「なんだ、山本君もやっているのか」主任がすかざす、「あ、もう終わりますから、すぐ行かせます」「そう」。

 

足音が遠ざかると部屋の先輩諸氏が一斉に「おい、明日は中止にしたくないから絶対に勝つなよ。うまくやれ!」
毎度のことです。

 

メンバーは撮影の中井さん、録音の矢野口さんで、この二人は牌をもってくるだけという本当の初心者ですが、黒澤さんの腕は結構なもので下手な細工では見抜かれてしまいます。

 

某日、私はラス親の連荘で、黒澤さんとの差は一万点余り、明日も予報は雨、今日は勝つかと不要牌を河に捨てた時、巨匠の待ったの声、「カンしよう」と。見ると嶺上開花のハネ満、大逆転です。

 

「山本君、君は天才だね。俺も長いことやっているが、君みたいにうまい負け方をする男は初めてだよ」
そんな器用なことが出来るわけもなく、偶然なんですが、巨匠全部知っていたのです。

 

12月。クランク・アップと同時に次の本多組に行くよう命ぜられて、ご挨拶にいくと、

 

「えっ、もう行っちゃうの、淋しくなるな、長いことありがとう。」

 

さし出された大きな手と撮影中とは異なる温かい顔が今でもはっきりと浮かんできます。

 

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出目昌伸

三倍の美学

 

懐ろ手の三十郎が宿場に現れる。
一陣の枯っ風。舞い上がる砂塵。ご存じ『用心棒』のワンシーンである。

 

その砂塵の係をやらされた。初めて黒澤組の助監督についた数日後、まだ駆け出しのころである。

 

劇場でお目にかかる黒澤映像のダイナミズムは知っていたが、

 

いざ現場に立って広いオープンセットの一角から、監督の意図する表現の度合いをおし計るのは全く雲を?む思い、手探りもいいところである。

 

砂塵の正体はほどよく乾かした灰で、それを大ざるに山盛りにし、うねりを上げる大型扇風機の前で、俳優の動きに合わせ緩急よろしくサッサッと飛ばす。

 

三十郎の目には入らないように顔の辺りは微妙に外す。

 

この高度?なテクニックを知るや知らずや監督の怒号は扇風機の轟音にもめげず絶え間なく伝わってくる。

 

いつの間にか周りにいた大道具・小道具さん(本来はこの人たちの仕事で助監督はいわば加勢)の姿が櫛の歯をひくように消えていく。

 

砂塵といえども役者の動きに絡むとあれば演出部の守備範囲というわけか。

 

たしかに監督の叱咤をまともに浴びる割の悪い役回りである。

 

ところが本番になって、長いテストで腕が痺れ、不覚にも大型扇風機の前に大ざるを落っことしてしまった。

 

灰は風に乗り、山盛りの塊のまま無情にも宿場の四つ辻に向かってプカプカ飛んでいく。

 

それも三十郎の背中すれすれに…。「待ってくれ!」と思わす駆け出したい。

 

当然「カット!デコ助!」と雷が落ちるところなのにどうしたことか聞こえない。

 

あまりにも猛猛しい現場のムードに世界の巨匠も一瞬見逃したのか?

 

数日後のラッシュは生きた心地もなく試写室の暗闇に身を縮め、息を潜めていた。やがてそのカットになる。

 

シネスコープの横長いスクリーンを横切って、例のプカプカがボワーンと飛んでいくではないか。

 

あちらこちらから失笑が漏れる。その時、後部座席から黒澤さんの声がした。

 

「成功したね…」

 

涼しい声だった。とたん失笑は消えた。

 

後日、中井キャメラマンから『野良犬』のラストで、前夜来の豪雨のなごりを犯人の衣装にどう表現するか苦労を重ねた話を聞いた。

 

そういえば、犯人の後姿は白いスーツの首のあたりまで泥がハネ上がっていた。心臓に焼き付く強烈な印象だった。

 

「丁度いい所から、三倍にしろ」

 

これが黒澤映像のセオリーと知った。

 

その人がミニマムな表現の極みでもある「お能」を好む。懐ろが深いというべきか。ああ。

 

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