「隠し砦の三悪人」は「七人の侍」同様多大な予算オーバーだった!

東宝から独立し黒澤プロダクション設立

隠し砦の三悪人

 

1958年、娯楽時代劇の傑作「隠し砦の三悪人」を製作。黒澤作品初のスコープサイズでの作品。

 

理屈なしの徹底的に娯楽を追及した大活劇である。

 

第9回ベルリン国際映画祭では監督賞を受賞、日本国内でも大ヒットを記録した。

 

ジョージ・ルーカスの代表作「スターウォーズ」は「隠し砦の三悪人」からアイデアを得たと自ら回想しており、ヒロイン・レイア姫の性格や行動は、雪姫をモデルとしており、またC-3POとR2-D2は太平と又吉がモデルとなっている。

 

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この映画では「七人の侍」同様、予算・製作日数が大幅にオーバーし、この映画で黒澤と共同プロデューサーを務めた東宝の藤村真澄が完成延期の責任を取って進退伺いを出すという騒ぎもおこった。

 

東宝はその後、黒澤側にリスク負担させる狙いでプロダクションの設立を要求し、1959年、東宝と黒澤側の共同出資による黒澤プロダクションが設立された。

 

 

 

 

悪いやつほどよく眠る

 

1960年、黒澤プロ第一作目「悪いやつほどよく眠る」を製作。

 

独立一作目は、興行収入を狙うよりも社会派作品を作りたいという黒澤の意思があったとされる。

 

「映画はまず、シナリオから」という黒澤は、この作品では特にシナリオに力を注いでいる。

 

5人によるシナリオ

黒澤明の脚本チームの執筆パターンっていくつかあります。

 

例えば、『七人の侍』。黒澤明、橋本忍、小国英雄の3人で合宿して、シチュエーションだけ決めておいて、第一稿を橋本が書いて、それに黒澤が赤を入れる、それを最終的に小国に渡してジャッジメントする。

 

『生きる』も黒澤明、橋本忍、小国英雄。橋本忍が第一稿を書いて、それをみんなで直す。

 

『隠し砦の三悪人』になってくるとこれに菊島隆三が入ってくる。このパターンはそれぞれからアイデアを募って面白いやつを採用する大喜利パターン。

 

そしてこの『悪い奴ほどよく眠る』は5人なんでこの大喜利パターン。当時の日本最強の脚本家集団が書き上げたドラマなわけですよね。
黒澤は作品によって、チーム編成を変えたり、工程を変えたりしながら脚本を作っていたので、脚本家兼脚本プロデューサーでもあったわけです。

 

しかしこの最強の5人、久坂栄次郎、小国英雄、菊島隆三、橋本忍、黒澤明の5人で完成されたシナリオであったが、後に黒澤はこう回想している。

 

「相当無理な点が残ってね。スラスラ書き上げたものと違って、今考えると気持ちの上では必ずしもスキッとしない作品に仕上がってしまいました。その点では「生きものの記録」のほうが、僕がストレートに出た写真(映画)です。

 

あの時は賛否両論、激しい声があがった。「悪い奴ほどよく眠る」のときは誰も何も言わなかったですね…」
※1

 

序盤の結婚披露宴シーンで、登場人物の相関図を紹介する手法は、
後に黒澤の影響を深く受けたフランシス・フォード・コッポラ監督の「ゴッドファーザー」でも用いられた。

 

 

 

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