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志村喬との別れ 三船敏郎の深い悲しみ
三船プロダクションという会社が分裂してから、3年後の昭和57年2月11日、三船敏郎はまたしても悲な出来事に遭遇する。
新人の頃から親のように慕っていた志村喬が病死したのだ。
志村と三船は、谷口千吉監督の「銀嶺の果て」から熊井啓監督の「お吟さま」までの約30年間に、52本もの作品で共演している。男優の中ではダントツの数を誇る共演者である。
志村喬・政子夫妻はまた、三船の息子たちにとっては「志村のおじいちゃん」「志村のおばあちゃん」と親しく呼んで、自宅に出入りする関係であり、いわば親戚にも等しい交友を保っていた。
史郎は「子供のころは、本当のお祖父さん、お祖母さんだと思っていました」と語っている。
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志村との最後の競演
志村との最後に共演になった「お吟さま」のとき、三船は豊臣秀吉役で、志村は千利休役だった。映画の中で、激怒した秀吉は利休に向かって「おのれっ。追追放じゃ!死ね!死ね!」と言い捨てて出ていく。
そのあと、秀吉に切腹を言い渡された利休が、手にした一輪の白椿を眺め、全身を震わせて慟哭するシーンが撮影されるとき、三船はセット内に留まった。
そうして志村の演技を凝視していたという。この撮影が終わった夜、三船は志村に上等な寿司の弁当を届けている。体力が衰えてきている志村への、せめてもの心遣いだった。
志村喬には慢性気管支炎と肺気腫の持病があり、父親の勤務地すべてが鉱山であったことが影響してか、公害病に認定された患者だった。
その上、1日に2箱のタバコをすうヘビースモーカーで、ひどい咳や息切れ、痰に長年悩まされてきた。三船もそのことは知っており、何かにつけて志村の体調を気遣った。
2人は古くからの知り合いだが、今回は激しく対立する役柄なので、現場で顔を合わせても、ほとんど会話をしなかった。それでも、ただ一度だけ、三船が志村に声をかけたことがある。
2人が並んでい椅子に腰かけ、ライティングの準備を待っていた時だった。
「ありがとうございました。また一緒にやりましょう」
「もし、僕が丈夫であれば…」
志村の返事は、自分の体調が悪化の一途を辿っていることを知った上でのものだった。撮影時は身体がふらつき、足取りもおぼつかない状態だったという。このとき志村は73歳。
三船にはもしかして志村との共演が最後になるかもしれないという予感があった。その相手に向かって、いくら役柄とはいえど、「死ね!死ね!」と連呼することは、強烈な痛みを伴っていたはずだ。役者ならではの痛みである。
志村に死因は慢性肺気腫による肺性心。享年は76歳だった。
このページの参考文献
※ サムライ 評伝 三船敏郎(文集文庫)

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