平成10年、1月24日に行われてた三船の葬儀・告別式では、生前に親しかった千秋実や香川京子らが弔辞を読んだが、黒澤明は体調不良で出席できず、息子の黒澤久雄が代読した。
三船君、今日は君の葬式だというのに、僕がそこへ行けないということをまず、謝ります。いまだに足の調子が悪くて、表に出られないのです。僕もこんなに辛い思いをしたことは今までありません。
三船君、君と最後に出会ったのは、本多猪史郎君の葬式だったねと思う。君の体調がよくないと聞いていたので、「大丈夫か」と聞くと「「大丈夫です」と笑って胸をそらせてみせたのが、君を見た最後の姿だ。
そう考えると、随分長い間、会ってないことになる。僕が三船君のことを思うとき、君は『酔いどれ天使』の松永だったり、『七人の侍』の菊千代だったり、『用心棒』の三十郎だったりするのだ。
彼らはいつまでも、僕の中に生きているのです。だから、三船君がこの世からいなくなったとはどうしても思えない。
昭和21年、敗戦直後の日本は活気に溢れていた。東宝第一期のニューフェイス試験で、山本嘉次郎さんが型破りの応募者、三船敏郎を発見した日のことをよく覚えています。
その後、谷口千吉第一回監督作品『銀嶺の果て』で三船くんはデビューし、翌年、僕の『酔いどれ天使』で主役のやくざを演じました。その時、僕は今までの日本の俳優に見れなかった、三船くんのスピーディな演技に度肝を抜かされました。
それでいて驚くほど繊細な神経を、デリケートな心を持っているので、荒っぽい役でも、単なる粗暴な性格にはならないところが魅力でした。
とにかく、僕は三船という役者に惚れこみました。『よいどれ天使』という作品は、三船敏郎というすばらしい個性と格闘することで、僕はやっと、「これがオレだ!」というものが出来上がったような気がしています。
もし、三船君に出会わなかったら、僕のそこ後の作品は、全く違ったものになっていたでしょう。
僕たちは、共に日本映画の黄金時代を作ってきたのです。今その作品のひとつひとつ振り返ってみると、どれも三船くんがいなかったら出来なかったものばかりです。
君は本当によく演ったと思う。三船君、どうもありがとう!
僕はもう一度、君と酒でも飲みながらそんな話がしたかった。さようなら、三船君。また会おう。
1998年 1月24日 黒澤明
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司葉子
三船さんは黒澤組で耐えに耐えてきたから、外国の映画に出たり、他の監督と組んでの仕事も臆せずにおできになったんでしょう。
三船さんのプロダクションがうまくいってたら、また、逆にご自分が黒澤さんを呼んで、新しい作品が作れたのではないでしょうか。
夏木陽介
ジョン・フランケンハイマー監督の『グラン・プリ』に三船さんをホテルから現場まで送り迎えしていた車がロールル・ロイスだったんですよ。で、三船さんは帰国するときに「この車が欲しいんだ」とオーナーに譲ってもらう交渉をしたんです。
車のナンバーがロンドン1番だったし、「これは売れない」というオーナーを粘って説得したら、オーナーが渋々承知してくれて、車を譲るにあたって、2つの条件を出したんです。
ひとつは「ナンバーを外さないでくれ」
もうひとつは「車体の色を塗り替えないでくれ」というものでした。
車体の色はシルバーで、上がシルバーブルーという色です。
車が日本についた時、三船さんは、
「夏ちゃん、オーナーとの約束破ることになるけど、車体は黒に塗り替えた方がいいよな」と言われ、
「三船さんがロールス・ロイスに乗るなら、やはり黒でしょ」と勧めました。
じゃあ、日本で一番いい業者を紹介してくれということになって、塗り替えちゃったんです。塗装費用は150万円ぐらい掛かったかな。ナンバーだけは最後までそのまま付けてましたけど。
香川京子
最後に三船さんとお会いしたのが、本多猪史郎監督のご葬儀が行われた時でした。その時は簡単なご挨拶をしただけでしたけど、きちんとしておられましたね。出来れば、ぜひ、またご一緒にお仕事をしたかったです。
ただ、映画界も、ある時期から変わってしまったので、黒澤監督もなかなか作品をお撮りになれなかったですし。でも、また、大人になってからの夫婦役とかね、三船さんとやらせて頂きたかった。私が仕事をご一緒させて頂いたのは、20代、30代だったから、大人のね芝居ができたらよかったなと思います。
世界で黒澤さんが評価されているとき、その映画の主役が三船さんということが多くて、お二人が一つになって、尊敬されていたのではないかと思います。
あれほど世界的にも評価されていた偉大な方なのに、晩年は寂しくなられたことを聞いて、人生を全うすることは、難しいことなんだなぁと感じました。とても残念です。
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殺陣師の宇仁貫三
三船さんほどの俳優さんは、まず出てこないでしょう。出会ったことがありません。本当に僕は三船さんに可愛がってもらいましたし、大事にして頂きましたし、その代わり、責任もしっかり持たされましたし。今だにふっと、社長のことを思い浮かべたりします。
僕は72歳になりましたけど、その世代、世代のスターさんと仕事をしてこられたのは、三船さんがいたからこそ、すべては三船さんのおかげだと思っています。
今は史郎さんの長男の力也さんが俳優として出てきているんで、そしたら、僕も殺陣をやらせて頂きたいなと思って。
社長と史郎さんと、義理の兄弟になりますけど、三船美佳さんともやってるし、今度力也さんとやらせて頂いたら、親子、孫の三代にわたって関わったということで。
橋本忍
三船敏郎という俳優を一言で表すとすれば、存在感の人でしたね。僕が書いた脚本には三船君が出てる映画が多いんだけど、年々歳々、存在感が強くなっていった。
僕が関わったものの中で、彼が一番いいと思ったのは『日本の一番長い日』の阿南陸相役だね。何人もの俳優が周りにいても、彼が一人でいるだけで画面が引き締まる感じでね。それは、彼の日々の勉強、努力が実った成果じゃないかな。
彼が僕にパイロットの話を書いてくれと言ってきたの。書いたのは書いたんだけど、テレビ番組の主なスポンサーが、三船君をCMに使っていいた製薬会社で、僕はそのことを知らなかったもんだから、脚本の中で、ヤクザが「人の生き胆を抜いて薬にして売っていた」と皮肉るセリフを入れてしまったんだ。そのセリフに製薬会社からクレームが来て、ダメになってしまった。
彼の存在感は特別なもので、高倉健とも、裕次郎とも、勝新太郎とも違う。
彼の人生が映像化されるとしても、三船君を演じられる俳優は思いつかないな。
次男 三船武志
あくまでも私見ですが、父が会社を作らずに、三船敏郎という俳優の仕事だけで生きていたら、歳をとっても色々な役が出来たのではないかと思います。
俳優の三船敏郎は私にとって自慢の父親でしたけど、会社を作ってからは、社長の顔になってしまった。
いいブレーンがついてくれていたら、、役者としてもっと長く仕事が出来たんじゃないかとも思うし、父に忠告してくれるような友人がいるとよかった。
父にはそういう人がいなくて、一人だったですからね。生まれた時代のせいでもあったんでしょうが、同級生とか、戦友とか、親友がいなかった。更に晩年は、会社を畳んだことで、潮が引くようにまわりに人がいなくなってしまった。
そんな環境も病気に影響したんでしょう。最初から最後まで、一俳優であってくれたらよかったのに。
私にはそれが一番残念です。
黒澤明の長男 黒澤久雄
僕は皆さんが思うほど、三船さんが忘れられているとは思わない。世界からみると、黒澤明と三船敏郎は別格の存在ですよ。
いけないのは、東宝という会社ですよ。フィルムは劣化していくのに、ちゃんとした新しいプリントも作らないし、補整もしない。昔のいい映画作品はきちんと残しておくべき立場にある会社が、それをしないということは、古文書を好んで読むひとしか、過去の名作を観ないということになりますよね。
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1920年(大正9年)、4月1日、中国山東省青島に三船家の長男として生まれる。父の徳造は秋田県出身で、中国に渡り、青島、泰天、天津あたりに店舗を構えて「スター写真館」という写真店をやったいたという。日露戦争では、従軍カメラマンをやったという父。幼い頃から大連で家業を手伝い、写真技術に詳しくなった。大...
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昭和39年当時、東宝は国内だけではなく、ホノルル、サンフランシスコ、ニューヨーク、ロサンジェルスに直営館を持っていた。ロスでの直営館『東宝ラブレア劇場』の運営を任されていた渡辺毅は元東宝撮影部の助監督。三船の海外映画のギャラの基準を作ったのが、この渡辺毅である。ストライキを起こし、お荷物社員として左...
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スター街道を着実に進み、国際的にも認められる俳優となった三船。デビューから10年を経て、「東宝のニューフェース」から、「日本を代表する俳優」へ成長していった。海外からの出演依頼も増え、昭和36年には、初の海外進出となるイスマエル・ロドリゲス監督のメキシコ映画『価値ある男』に出演、。アカデミー賞外国語...
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昭和43年、三船は杉江敏男監督、黒澤明・山中貞雄脚本の『戦国群盗伝』という時代劇に出演した。共演は鶴田浩二である。鶴田は前年に東宝と専属契約と結んでおり、松竹から移籍してきたことを強く意識していた。「何か三船だ!俺も天下の鶴田浩二だ!」と公言してはばからなかった。彼は三船とは正反対に、付き人を何人も...
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昭和42年、成城9丁目の敷地に完成した真新しいステージでの第一作目は、小林正樹監督を迎えての時代劇『上意討ち 拝領妻始末』であった。しかし、小林が松竹の専属監督だったからというよりは、これまでつきあっていた監督たちとは違う資質の監督であったため、三船には苦しい経験となった脚本家橋本忍が回想する三船の...
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昭和43年、三船敏郎と石原裕次郎は東映、東宝、日活、大映、松竹の5社が結んだ「監督や俳優は貸さない、借りない、引き抜かない」という協定に立ち向かった。当時の映画界にはこの「5社協定」を破ったものは、全ての社から拒絶され、映画界から追放されるという暗黙のルールがあった。三船は東宝、石原は日活とそれぞれ...
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日本の映画市場は、テレビの出現によって1958年(昭和33年)をピークにして、斜陽産業になっていく。テレビだけではなく、娯楽の多様化も相まって、5年後には観客数が半減してしまい、映画産業自体が危機を迎える。大手プロダクションは事業規模を縮小せざる負えない状況であった。東宝はまず黒澤明に独立させると、...
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映画業界は大手5社が「俳優、監督を貸さない借りない引き抜かない」という5社協定を結んでおり、これに背いた者は、暗黙の了解で干されるというルールが存在していた。大映社長の永田雅一の主導で成立したこのシステムは、1971年をもって自然消滅するまで15年以上にわたって続いた。元々は戦後日活撮影所が映画製作...
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