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三船と喜多川美佳の出会いは『赤毛』
成瀬己喜男監督が死去し、黒澤明、木下恵介、小林正樹、市川崑ら4人が集まって『四騎の会』を発足させた昭和44年。
三船は岡本喜八の監督・脚本で『赤毛』の撮影に入った。
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女郎役の一人だった名もなき女優
この作品で三船は運命の女性出会う。三船の側近の田中壽一は、喜多川美佳についてこう語っている。
『赤毛』には女郎屋のシーンがあって、女郎が15人いるわけですよ。その中に、新人女優の北川美佳(のち喜多川)が混じっていた。
この女郎役は監督も私もセレクションせずに、助監督任せでした。その助監督が一人くらい美人がいてもいいだろうということで、選んだのが北川美佳だったんです。
彼女は自分の出演シーンだけじゃなく、いつもカメラの後ろにいて撮影を見ていた。スタッフは「あれは誰だ?」と注目したほどだった。
その熱心さからか、ほんの端役だったのに、三船もまた彼女に興味を持つようになったと田中の推測である。
美人といっても、衣装は汚れていたし、綺麗に化粧していたわけではなかった。
ただ、三船さんは撮影が終わると、習慣的に女優さんたちを車に乗せて駅まで気軽に送っていってたんです。
その中に北川美佳がいたのかどかはわからないですが、なんで2人が付き合うようになったのか、経緯はまったくわからないんですよ。他の社員に聞いてもみんな知らなかった。
『赤毛』撮影当時、三船プロで演技事務の仕事を任されていた中沢敏明氏の証言です。
三船さんは喜多川美佳を見たときには、西川善男専務がいて、西川さんから「あの女優はどこの事務所だ」と聞かれました。
僕が所属事務所を教えて、そのあとで社長と北川さんは交際を始めたのでしょう。
次回作『新選組』で大抜擢
次の『新選組』という作品で、彼女に大きい役が付きました。でも新人で演技経験が少なかった彼女は、現場で何度もNGを出していましたね。
『新選組』で北川美佳が抜擢されたのは、沖田総司役を演じた北大路欣也の恋人役だった。
映画のクレジットには中村錦之助、小林桂樹、司葉子、池内淳子らメインの俳優が並ぶ中に、彼女の名前が混じっている。
ほぼ無名だった新人女優に対して、通常ではありえない待遇である。
三船が北川と出会った『赤毛』は興行的には失敗に終わった。
稲垣浩監督『待ち伏せ』にも出演
続いて三船プロは昭和45年に『待ち伏せ』を製作。この作品でも、北川美佳は茶屋の娘役で起用され、セリフが多い重要な役を与えられている。
中沢氏はこう振り返る。
2人の関係に気付いていたとしても、誰も社長を止められなかったでしょうね。
酒を飲むと滅茶苦茶なところもあったけど、本当は真面目で実直な人なんだということを、みんなが知っていましたからね。
『待ち伏せ』は稲垣浩監督で、出演者は三船敏郎、勝新太郎、中村錦之助、石原裕次郎などのスターを集めて、三船が勝負に出た作品であった。
『赤毛』での失敗を取り戻さなくてはならないというプレッシャーで臨んだが、まとまりを欠く作品との批評を受け、興行的にも失敗作となった。
時代はもはや、スターを集めただけでは、映画館に観客を集めることは出来ない時代に突入していた。
そして稲垣浩監督はこの作品を最後に、映画界を去っていった。
このページの参考文献
※ サムライ 評伝 三船敏郎(文集文庫)

三船敏郎 「男の癖にツラで飯食うなんてイヤです!」 元々は撮影部希望だった!
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