三船プロに残った社員たちからは、「造反の首謀者」「裏切者」「恩知らず」の汚名を着せられた田中だが、三船敏郎に対うする思いは、愛の告白に近いほど深かったという。
映画の企画や打ち合わせがあって、外国へ行った時、私は三船さんと一緒にいて、何度も身震いをしました。
例えば、シャルル・ド・ゴール空港の税関で周囲の人たちが三船さんを見つけたときに、「トシロー!」「トシロー!」と呼ぶんですよ。地鳴りのような声に包まれて、心から感激しました。ああ、この人を仕事が出来て幸せだなぁ、と思ったのを覚えています。
それに三船さんは外見とは違って、本来はとっても淋しがり屋で気さくで、例えば、私たちは祖師谷の「たかはし」という焼肉屋へよく行っていたんっですが、三船さんは狭い路地をロールス・ロイスに乗って現れて「おまえたち、なんで俺を誘ってくれないんだよ」とスネるような人でした。
三船の代理で田中に解雇を申し渡したという、伊藤満はその時についてこう語る。
私が田中さんに解雇を申し渡したというのは、全然記憶にないですね。ある時、田中さんが芸能部を引き連れて出て行ったんです。私は田中さんのすぐ下で働いていて、他に田中さんと横並びのような方がおられましたし、私がそんなことを宣言できる立場ではなかった。
伊藤の見解では、過去が風化してしまい、田中の記憶違いではないかと指摘する。
ただし、田中の下で働いていた関係からの話をする機会が多く、いつか彼が会社を辞めるだろうという予感は持っていた。はっきりとした理由はわからないが、三船社長と田中の関係がおかしくなったのも感じたいたという。
そんな伊藤も3年後の昭和57年9月には三船プロを退社する。
そのとき、会社では常務という立場にあったが、三船プロの経営に限界を感じ、同時に自分の将来も考えての決断だった。伊藤は同じく常務であった元村武と共に退社した。
三船はこの時点で、田中壽一に続き、またしても腹心の部下を失うことになった。会社に空いた穴はどんどん広がっていく。
三船は2人の退社に当たって、伊藤、本村を責めたりはしていなかった。伊藤が退職の挨拶をしたときは、その意志を聞き、黙ってうなずいただけ。本人たちに怒りをぶつけるわけではなく、相手の心情を思いやって飲み込む人間だった。どんな苦境に立たされても、常に人を慈しむという気持ちを持ち続けていた。
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夏木陽介の見解
三船を敬愛する夏木陽介もまた、会社の分裂にいたる田中の話には首を傾ける。三船に一番可愛がられた彼は、三船敏郎という俳優の性格、同時に彼の社長としての心遣いの細やかさをよく知っているからだ。
そもそも、田中壽一は東宝の演技課の一社員ですよ。明日撮影のシーンナンバーとか、予定はこうなりますとか、連絡係だったんです。
ある日、壽一が僕に「演出をやりたい」という相談をしてきたんです。ただ、当時の東宝は東大出でなければ助監督は採らなかった。そんな事情を知っていたので、かなり無理だとは思いましたが、僕が「青春とはなんだ」というドラマをやったときに、松森健さんという監督に「壽一が演出をやりたいと言ってるんだけどどうだろう?」と相談したら、「分かった」と。それで松森さんが東宝の子会社だった宝塚映画で「青春とはなんだ」の本編を撮る時に、壽一を一緒に連れていったんです。
そのあと、壽一は松森監督と何本か仕事をして、三船さんとはどこで出会ったのかしりませんが、三船プロのスタッフになりました。
夏木はいまでも田中を許していないのか。田中にたいしては厳しいをコメントを残す。
何年かして、壽一が専務になって、ある日「相談がある」と呼ばれていったら、「芸能部と制作部とは別会社にしたい。デメリットのない事務所を作りたいが、どうだろうか」という話でした。
翌日、三船さんに会って、「実は昨日、田中壽一に呼ばれて、本社の製作部と芸能部を分けて、芸能部を独立採算制の事務所にするという話が出たんですが、どうなさいますか?」と尋ねたら、「いや、そんな話はまったく聞いてないよ」と言われました。
それで僕は「分裂した時、三船さんはどちらに所属されますか?」と聞くと「俺は三船プロだよ。そもそもそんな話耳にしていない」と。
三船さんは田中壽一のことは自分の一番の部下、片腕たど思っていたから、怒るというよりは茫然という感じでした。
当時の三船プロには俳優が大勢いて、それぞれに稼いでいましたからマネージメント料も入りますし、俳優たちを連れて行けば儲かると考えて独立したんだと思います。つまりは、お金絡みの話なんですよ。
田中や田中についていった社員たちは、社内の空気が悪くなっていたので、このまま会社に残っても先はないと考えて辞めたなどと話す。創価学会の会員にならなければ、社内での出世は望めないと考え、決意したのだと。
これについて夏木はこう話す。
僕は三船プロの所属になってから、ずっと三船さんの側近でいたけど、そういう空気はまったく感じなかったですよ。折伏用の本が配られていたというのは初耳ですね。壽一は銀座の事務所と本社を行き来していたし、阿知波はただのマネージャーで、彼もあまり銀座にはいなかった。
僕からすれば、結果的に彼らは、三船さんや松森さんや僕を利用して出て行ったんですよ。僕が最後まで会社に残ったのは、三船さんに対する気持ちからです。それ以外にないです。竹下景子は、僕が連れてきた子だったので、「夏木さん、こんな問題になってなってるけど、どうしたらよいでしょう」と相談されて「俺は残るよ」と話したら「私も残っていいですか」というから「ああ、いいよ」と答えました。
そんなこともあって、三船さんのお葬式の時に、僕が大きな声で「こんなところに壽一は来れないだろうな」と聞えよがしに言ったら、前の方の席で壽一が「僕、来ています」と答えたんです。
分裂騒動の後、三船プロは「田中壽一と阿知波伸介を解雇した」と発表。両名の他に多岐川裕美と秋野暢子を契約違反で訴えたが、最終的には和解というかたちで決着をつけた。
三船は、自分と会社を見限って去った人間の多さに衝撃を受けながらも、残った社員たちの為に、イヤな仕事も引き受け、働き続けなければならなかった。何が間違っていたのか、なぜ腹心たちが離れていったのか、三船は自問し続けた。
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橋本忍の見解
三船プロの部外者であった橋本忍は「設立当時から心配していた」と話す。
やっていけるかなと最初は思っていたけど、三船君は堅実だったですよね。何年かは映画もテレビも作っていたし、順調だった。だけど残念なことに、三船君のプロダクションには三船くん以上の人はいなかった。僕から見ると、全部がイエスマンでね、三船君にちゃんと物を言える人間がいないな、と気になっていた。
だから彼は大概自分の勘で動いていた。それはそれでいいんだけど、間違いがあったときにヒビが入るっでしょ。人がいないから。彼にしてみれば、最初のうちは経営も上手くいっていたので、俳優さんの部門も強くして、だんだん羽を広げていった。僕は俳優さんの部門が果たして必要なのかな?と思っていた。
撮影所をつくるなら、映画やテレビの製作だけに集中していればよかったという意見である。そうすれば、芸能部のタレント収入をあてにすることなく、会社は成り立っていたと。
渡邊毅の見解
内紛騒動について、最も厳しい分析をしたのは、ロサンゼルスにあった「東宝ラブレア劇場」の元支配人で、三船が海外進出するときの、ギャランティの最低基準を作った渡邊毅である。彼は三船プロに所属したことがない。彼の見解はこうだ。
三船さんは昔の友達を大事にする人なので、三船プロを設立するときは、私が入社する前のプロデューサーとかスタッフたちを連れていかれましたけど、私から言えばそういう連中はほとんど使い物にならないというか。三船さんは人情に厚いから、古い友人や何かで世話になった人たちを切り捨てることが出来ないんですね。東宝内にはもっと出来のいいのがいたんですよ。私には、三船さんは自分が連れて行った連中を食わせるために苦労なさっていたように映りました。
なにより、田中壽一が片腕で、彼を信頼していたというのは、三船さんにとっては弱いところですよ。若くて経験はないけど、こいつは叩けばよくなるという人間を見抜けなかった。東宝という会社は、我々以降はペーパーテストで人を雇っているでしょ。あとは縁故採用とか。そういうのはダメですよ。テストの結果は悪くても、何かしらの見込みがあって、叩いて鍛えれば物になるという人間を採用しなくなったことにも問題があったでしょう。
裏切り者たちの末路
三船プロを分裂させた上で設立した「田中プロモーション」は、高倉健主演の「駅 STATION」「海峡」「居酒屋兆治」などの話題作を次々と製作。最盛期の昭和57年には年商14億円を上げる絶好調っぷり。
しかし、翌年昭和58年には、副社長だった阿知波伸介が竜雷太、秋野暢子らタレント15名を引き連れて独立。今度は田中が作った会社が内部分裂した。
田中のコメントによれば、阿知波の下にいたスタッフが、ある女優さんのCMのギャラ500万円のうち、250万円を抜いてしまったという。ギャラを払い込んだところから領収書が出てきて発覚したのだという。
阿知波は竜雷太を社長にして「アクターズプロモーション」を設立し、田中から完全独立した。
のちに田中の会社も阿知波の会社も多額の損失を出して倒産。阿知波は昭和59年多岐川裕美と結婚し、一子を設けていたが、平成9年に離婚。そして平成19年、鹿児島県内で自殺した。
田中壽一もまた、波乱続きだった。平成3年に7億円を超える負債を抱え、ついに会社を倒産させた。田中は仕事が全盛期の昭和57年、21歳年下の烏丸せつこと結婚し、二子をもうけたが、平成3年に脅迫の疑いで逮捕されている。のちに烏丸と離婚。
三船敏郎に反旗を翻した田中も阿知波も栄枯盛衰という言葉を想起させるような生き方である。
参考・引用文献
※ サムライ 評伝 三船敏郎(文集文庫)
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