推理映画の傑作「天国と地獄」
誘拐をかねてから恐れていたという黒澤が、たまたま読んだというエドマクべインの小説「キングの身代金」にインスパイアされ製作したのが、1963年公開の「天国と地獄」である。
長男の久雄は当時17歳で誘拐の恐れはないが、長女の和子は8才と幼く有名人子弟の営利誘拐の可能性は否定できず、黒澤自らの家族に起こりえる可能性の恐怖が、映画を作る発端になったといわれている。
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映画は徹底的に細部までこだわった推理映画を作ってみようということで、おなじみの黒澤脚本チームにより完璧な脚本がつくられたが、公開後都内を中心に誘拐事件が多発し、このことは国会でも取り上げられ、公開中止も検討された。
当時の誘拐罪の刑罰の軽さを問題にしたこの映画が、1964年の刑法一部改正(身代金目的の略奪<無期または3年以上の懲役>)のきっかけになったという。
当時、日本最速の列車だったこだま号のシーンでは、国鉄から実物の「こだま号」用151系特急電車を、1編成チャーターし、実際に東海道本線を走らせて撮影された。
客室窓はすべて固定式で開かない構造だが、洗面所の換気窓は例外で7センチだけ開くという構図が重要なトリックになっている。
これについて国鉄に何度も問い合わせを行ったため、最後には「あなたたちは何者ですか?」と怪しまれたという。
身代金受け渡しの鉄橋にさしかかるシーンの撮影では、民家の2階部分が邪魔だったため、依頼して撮影の1日だけ2階部分を取り払わせたという。
本篇ではわずか数十秒足らずのシーンだが、撮影所のセットで一週間リハーサルを繰り返したという。
しかし、列車を貸し切って行われた一発勝負の撮影ではやはりリハーサル通りにはいかない。実際に動いている列車の中で演技することはまったく勝手が違っていたという。
本番は緊張のため、誰もがリハーサルよりも数段速いテンポでセリフを喋っていた。でも結果的にそれで緊迫感が増し、結果オーライになったという。
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三船との最後の作品「赤ひげ」
そして1965年、黒澤ヒューマニズムの到達点といわれる「赤ひげ」を製作する。
これは山本周五郎の小説「赤ひげ診療譚」を元に、後半はドストエフスキーの「虐げられた人々」を取り入れて構築されている。
「日本映画は危機と叫ばれているが、それを救うものは映画を創る人々の情熱と誠実以外にない。私はこの作品の中でスタッフ全員の力をギリギリまで絞り出させてもらう。そして映画の可能性をギリギリまで追ってみる。」と語り、熱意で作品を完成させた。
完成した作品を観た山本周五郎は「原作よりもいい」と絶賛したという。
興行的にも大ヒットを収め、海外ではヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジュ賞を受賞した。
しかし日本映画のピークは1958年で、「赤ひげ」公開の1965年は4分の1ほどの観客動員数にまで減ってしまった。
黒澤映画はそれと反比例するかのごとく、大衆人気、世界的評価を得て、「天皇」「世界のクロサワ」と評されるようになっていく。
日本映画が不況で規模を縮小せざるを得なくなったのに対し、クロサワ映画は規模が逆に大きくなっていったので、費用が掛かるクロサワ映画は日本映画の枠内では収まりがつかなくなっていた。
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この「赤ひげ」が黒澤×三船のコンビで撮った最後の作品となった。
堀川弘通は自著でこう記している。
志村喬は「生きる」で単独主演。「七人の侍」では侍大将として使命を終えたのである。
志村は「生きる」「七人の侍」で最高の賞賛を得た。
志村自身も「私は一生脇役かと思っていたら、黒澤さんのおかげで「生きる」で勘治役がやれた。
もって銘すべしです」と語っている。
三船敏郎も、東宝ニューフェイス募集の際クロさんのおかげで入社し、クロさんの「酔いどれ天使」以来主演を続け三船とクロさんはほとんど一体という関係だった。
しかも「赤ひげ」はクロさんにとって渾身の作品というべきで、赤ひげの三船は入魂の演技だった。クロさんも、三船は「赤ひげ」で総仕上げ、と思ったのではないか。
クロさん自身も「赤ひげ」を最後に別の鉱脈を掘りたいと考えたに違いない。
野次馬は「それ、黒澤と三船は喧嘩別れした」とはやしたいだろうが、私はそうではないと思う。この作品で三船は使命を終えたのである。※3
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脚注
※1 文藝春秋発行 小林信彦著書 「黒澤明という時代」より抜粋
※2 やのまん発行 塩澤幸登著書 「黒澤明 大好き!」より抜粋
※3 毎日新聞社発行 堀川弘通著書 「評伝 黒澤明」より抜粋
※4 河出書房新社発行 「黒澤明 生誕100年総特集」より抜粋
※5 文藝春秋発行 田草川弘著書 「黒澤明VSハリウッド トラ・トラ・トラ!その謎のすべて」より抜粋
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