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幸子夫人との新婚生活
三船と幸子夫人の結婚の媒酌人は、山本嘉次郎監督が務めた。
挙式は青山学院大学の礼拝堂で行われ、幸子夫人は22歳、三船は29歳。お似合いの美男美女カップルであったという。
三船の両親は二人ともお亡くなりになっていたため、親代わりとして志村喬夫妻が出席したという。
「デビューからしばらく、父は岡本喜八監督といっしょに下宿していたんですが、昭和25年にニューフェイスの同期生だった母(吉峰幸子)と結婚してからは、小さな家に間借りして住みました。
映画出演で収入も増えたころに、近くにあった医者の未亡人のおおきな洋館を買い取って引っ越したんです。」
「その洋館で、私は小学校から大学生まで暮らしました。私はちょうど、『羅生門』が公開されたときに生まれたんです。黒澤監督の長女の和子ちゃんは『七人の侍』のときの生まれです。
だから僕は『羅生門』の子、和子ちゃんは『七人の侍』の子って言われていました。
黒澤監督の作品に父が出演している頃って赤ん坊だったので、当時に父については記憶がないんです。」
長男 史郎
三船は幸子夫人との間に次男の武志を生んでいる。実際には、武の上に男の子が生まれたが早くに死亡、武志の下に女の子が生まれたがこれもすぐに死亡している。
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幸子夫人が語る三船との新婚生活
婦人の幸子が三船との新婚当時を振り返ってこう語っている。
「そのころの三船がまだ若く、血気盛んでした。無口なだけに怒りっぽく、結婚してから何度私はぶたれたかわかりません。撮影に入る直前で特に気が荒くなり、与えられた約の性格がよく掴めないようなときは、とてもイライラしてしている様子で、うっかり傍に寄ろうものなら、どんな目に合わされるか知れたものではありません。そのくせ、撮影が始まりでもすると、もうケロっとした顔つきです。そして『ぶったりして悪かったなぁ』などと、いかにも照れくさそうに、私をいたわったりします。」
夫人を労わる時の三船は、わざとらしいお世辞を言ったりすることはなかったが、外出時に夫人の好物を買って帰ったり、手間の掛かる浴室の掃除を引き受けたり、夫人が長男の史郎を妊娠してからは、掃除好きに磨きがかかり、家屋内に埃や塵を見つけたときは、ほとんど自分で掃除していたという。
意外だったのは、三船が自宅では浴衣を含む着物を一切着なかったことだ。
いつも洋装で、身に付けるものは、下着を除いて全て自分で選んで購入した。シャツ、セーター、ズボン、コート、靴など、三船は自分なりの拘りを持っていた。彼が気に入っていたのは、銀座の『サンモトヤマ』という老舗の洋品店で、セレクトショップのはしりのようなお店だ。
時代劇の出演が多い三船へのイメージとして和装を連想しがちだが、本当は洋装が好みで、欧米のブランド品が三船は大好きだった。
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車への拘り
そして三船がもう一つ拘っていたのが車。大連で暮らしていた少年時代、三船は街を走るフォードT型のタクシーを見ていた。そのころから車への憧れが生まれ、いつか自分も運転してみたいと思うようになった。
だが太平洋戦争勃発とともに、街の風景が不穏なものに変わっていく。自分もまた召集され、美しく塗装された乗用車は夢の乗り物となってしまった。
そうして終戦後、三船は日本人が自動車の運転免許を取得できる前に、PX(アメリカ陸軍基地)からガソリンを買って、アメリカ車を乗り回すようになった。
ほとんどが借り物である。昭和25年、三船は念願の運転免許証を取得した。以後は収入を得る度に、さまざまな種類の車を購入して乗り回したが、もっとも愛用したのはMG・TDというヨーロッパのスポーツカーである。
このMG・TDは、厚木航空基地のパイロットから買ったもので、以後数十年にわたって三船の愛用車となった。自宅から撮影所へいくときも、ロケ地へ行くときも、彼はこの車を颯爽と走らせた。
その恰好の良さに魅せられ、東宝の俳優たちの間でMGブームが起こったほどである。
自宅での練習
意外なことに、息子兄弟とも、三船が自宅で鍛えたり、練習したりしているのを目撃していないという。
「自宅では、殺陣とかそういう演技の訓練は見せなかったですね。ガレージの二階に体操場みたいなスペースを作って、そこに平均台を置いたり、サンドバッグを置いたり、身体を鍛えるための道具は揃えてあったんですが、そこを父が使っている姿は、私の記憶にはないです。ただ、私が子供のころに夏祭りで買ってきたヒヨコをそのスペースで飼って、ヒヨコが大きくなって、鶏小屋になってしまったようなことはよく覚えていますが。もしかしたら、私たちが知らないところで一人で訓練をしていたのかもしれないですね。」


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