黒澤明も三船敏郎も「羅生門」出品されていたこと知らなかった!

スポンサーリンク

「羅生門」でヴェネツィア国際映画祭グランプリ受賞

羅生門

 

黒澤明 羅生門

 

1950年、大映で「羅生門」を製作。芥川龍之介の小説「羅生門」と「籔の中」をベースに橋本忍との共作で脚本を仕上がる。
元は橋本が持っていた脚本「雌雄」が原型。

 

撮影は黒澤の希望で大映のキャメラマン宮川一夫が担当する。
当時はフィルムが焼けるとしてタブーとされていた太陽に直接カメラを向けるという撮影を行ったほか、さまざまな工夫を凝らした撮影方法で、モノクロ映像の魅力を最大限に生かした映像に仕上がっている。

 

スポンサーリンク

 

「羅生門でびっくりしたのは、宮川君のキャメラでしたね。百点だね、って答えたね」
「台本を読んで、今までの日本映画にはないシリアスな話なので、グレイ調子をなるべく抑えて、ハイコントラストで撮ったような白と黒、ハーフトーン部分をなるべく少なくした1つのグレイの3色で映像を組み立てたいと話すと、黒澤は賛成してくれた。」※4

 

実は黒澤は羅生門でサイレント時代の技法を考え直してみたいと思っていたので、宮川が考えていた白と黒しかない単純明快な画調はピッタリだったのである。

 

公開当初は、難解な作品ということもあり、評価、興行収入ともに不評であり、大映の永田社長は試写の席で、「こんな映画、訳わからん」と席を立ち、総務部長を北海道に左遷、企画の本木を解雇している。

 

 

スポンサーリンク

 

 

そんな中、ヴェネツィア国際映画祭の依頼で、日本映画の出品作を探していたイタリフィルム社のジュリアーナ・ストラミジョリという女性が「羅生門」を見て感激し、出品作として大映に申し出たが、大映側がこれに反対。

 

ストラミジョリは自費で英語字幕を付け、映画祭に送ったところ、なんとグランプリの金獅子賞を獲得。世界中に黒澤に名が知られるきっかけとなった。

 

これを受けて大映の永田社長は、手のひらを返したように「羅生門」を大絶賛し始め、自分の手柄のように語ったといわれている。

 

黒澤は作品が出品されていることもしらず、「羅生門」そのあとの「白痴」ともに不評で腐っていた時期。

 

その頃黒澤は釣りに没頭しており、とある日多摩川での釣り中に奥さんが駆けつけてきて、ヴェネツィア国際映画祭グランプリ受賞の報を始めて聞いたというエピソードがある。

 

当時日本のジャーナリズムは、アメリカのアカデミー賞は知っていたが、ヴェネツィア国際映画祭を知らなかった。
日本映画がヨーロッパで評価されるなどとは考ええもいなかった時代である。

 

このグランプリ受賞が世界中にどんな波紋、影響を及ばしたのか?
日本の映画界も序々にその威力を実感してくことになる。

 

いままでは「いい作品は作るが手が掛かるうるさい監督」という評価を下していた配給側も、世界の権威ある映画祭でグランプリを撮った監督として頭1つ抜きん出た黒澤に対しては、各映画会社は手のひらを返していくしかなかった。

 

作品がヴェネツィアに出品されていることも知らなかったというから驚きです。

 

本人も「なにその賞?」という感じだったのでしょうか。自費で字幕を付けて映画祭に送ったストラミジョリという女性の見る目が金獅子賞でしょう。

 

もって生まれた才能や実力が運を手繰り寄せるのですね。

 

スポンサーリンク

 

 

世界の巨匠黒澤明

映画評論家?小説家?の高橋実氏が『羅生門』が世界に受け入れられたことについて語ったものがある。

 

『羅生門』はまさに完璧だった。

 

ひとつの事件を巡り4人の人間が異なった事実を証言するという構成。すでに死んだ当事者の証言のために巫女まで呼んで訊きだすという強引かつ大胆な映画的魅惑にあふれた構想力。

 

キャメラ、役者、美術の力強いダイナミズム。人の心の懐にゆっくりと分け入っていくようなボレロのリズム。人間の持つ欺瞞をこれでもかと描き切りながらも、急転直下、人間への信頼への回復で幕を下ろす鮮やかさ。

 

これは暴行殺人という人間の醜悪な行為を描きながら、むしろ人間の生命力のたくましさを感じさせる点と相まって作品にポジティブな感動を与える。そこには世界に通じる才能の確かさが十二分に感じられた。

 

しかし、クロサワが世界の巨匠となり得たのはそれだけではない。それは映画史の意志だったのだ。

 

巨匠への登竜門となったヴェネツィア映画祭で『羅生門』がグランプリを得たのが1951年。いみじくもこの時代は国際映画祭が映画芸術の表舞台として注目を浴びつつあった「映画祭の時代」の幕上げだった。

 

この時期、芸術的にも商業的にも衰えを見せつつあり、60年代には斜陽時代を迎えるアメリカ映画に対抗して、映画祭はいくつかの巨匠を発見し、彼らに映画芸術の発展を託す時代を迎えていた。

 

イタリアのロッセリーニ、ヴィスコンティ、フェリーニ、アントニオーニ、スウェーデンのベイルマン、そして未知なる映画大国日本の巨匠として黒澤明は迎え入れられたのだ。

 

この50年代から60年代に時期は一部の巨人が世界映画をリードした時代だった。彼らにフランスのジャン・リュック・ゴダールらヌーヴェル・ヴァーグやアメリカのニューヨーク派の監督たちをくわえた映画作家たちが、現代映画を確立した。以降のあらゆる映画はこの時代の映画のヴァリエーションなのである。

 

黒澤明以降、日本映画に巨匠はいなくなったと嘆くのは当たらない。それは一部の映画開発途上国を除いて全世界共通の現象なのだから。ちなみに、黒澤が『アメリカの影』を観てニューヨーク派のジョン・カサヴェテスに注目したというエピソードは彼の映画眼の鋭さを証明している。

 

現在カサヴェテスが遺した映画言語は30年近くを経て、今もって最も生生しいリアリズムを表現して、定着しつつあるのだから。

 

ところで前出の巨匠たちの中に黒澤明の名前を並べてみると違和感を感じざるを得ない。何故と考えれば、ひとつ答えは彼の映画は他の巨匠たちとはくらべものにならないくらいアメリカ映画的だという点だ。

 

このことは、誰よりも彼の開発した映画言語が、アメリカ映画で使用されているという事実で既に照明されている。

 

「アメリカ映画的」とはいかなることか。それは作られる映画全てをジャンルという娯楽映画の型にはめ込んでしまうシステムであり、それに内包されるテーマやメッセージが文化風俗の分け隔てなく誰にでも理解でき、議論することのできる公明性であり、映画といおう言語を物語を語る方便としてしか用いる術を知らない不自由性のことである。

 

なるほど『羅生門』の属するジャンルはアメリカ映画にはない。しかし、その代わりにアメリカ映画にひとつのサブジャンルを付け加えたのだ。

 

もう一つ、黒澤と他の巨匠たちとを分けるのは、彼らにはすべからくネオレアリズモ、貴族階級と共産主義、大女とサーカス、愛の不毛、神と人間といったキャッチフレーズが思い浮かぶのに、黒澤にはそれがない。

 

先ほどのアメリカ映画の伝でいくと、他の巨匠たちは映画全てが自分自身というジャンル作品を作り続けていたのに対し、黒澤は様々なジャンル作品を、新たなサブジャンル作品を作り続けたことになる。

 

どちらが偉大であるかは即断できるものではない。ただ一つ言えるのはそれこそが黒澤明の輪郭の曖昧な個性の乏しい映画作家にしたということである。

 

※4 河出書房新社発行 「黒澤明 生誕100年総特集」より抜粋

 

U-NEXT で黒澤明監督作品を観る(31日間無料)

 

 

このエントリーをはてなブックマークに追加   

 

前のページ 〜海外に評価される前の黒澤明×三船敏郎 「静かなる決闘」「野良犬」「醜聞」〜

 

次のページ 〜黒澤明「生きる」は宮崎駿も絶賛!「白痴」はさんざんであったと回想〜

 

 

脚注
※4 河出書房新社発行 「黒澤明 生誕100年総特集」より抜粋

黒澤明の少年時代 〜関東大震災の被災とロシア文学への心酔〜

絵画に目覚めた少年時代1910年、父・勇と母・シマの4男4女の末っ子として東京都に生誕。父は現在の日本体育大学の理事をしていた。1916年、財界人や有名人の子弟が多かった森村学園の付属幼稚園に入園。しかし数年後、父・勇が仕事での不正を追求され、理事を退く。私立の森村学園から公立の黒田尋常小学校に転校...

≫続きを読む

画家を夢見る青年期の黒澤明〜プロレタリア絵画と政治活動〜

1927年、中学を卒業した黒澤は画家になることを志し、美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)を受験するがあえなく失敗する。しかし画家の道は諦めず、川端画学校に入学し洋画を勉強した。1928年、秋の二科展で「静物」が入選する。翌1929年には「日本プロレタリア美術家同盟」に参加、第二回展示会に、「建築...

≫続きを読む

映画界入りした黒澤明 〜P・C・L映画製作所(後の東宝)に見事合格

画家を一生の仕事をしていくことに自信を失くしていた黒澤。そのころの心境を自伝「蝦蟇の油」でこう語っている。3年間私には、特にこれという出来事はなかった。兄の自殺と前後して、音信普通だった長兄の病死の報があり、私の家の男は私一人になってしまったのだから、なにか長男のような責任を感じ始めていた。若いとき...

≫続きを読む

黒澤明 助監督時代 〜山本嘉次郎に学び、高峰秀子とは恋仲に〜

黒澤は入社早々サード助監督として矢倉茂雄監督の「処女花園」についた。この一本で黒澤は映画作りが嫌になり、早々と退社することを考えたが、周囲になだめられて思いとどまったらしい。そのあと2作目についたのが、面接時に意気投合した山本嘉次郎監督の「エノケンの千万長者」。この一作で黒澤は映画作りにやりがいを感...

≫続きを読む

黒澤明「姿三四郎」で監督デビュー 「120点」小津安二郎が絶賛!

姿三四郎富田常雄原作の小説「姿三四郎」の新聞広告を見て黒澤は「これだ」と直感的に思い、読みもしていないのに企画部長のところへ駆け込むが、とにかく読んでからということになって、その日の夕方に書店で買って読むとやはりおもしろいということで、さっそく東宝が映画化のオファーを出したという。この後、一日遅れで...

≫続きを読む

黒澤明と三船敏郎 衝撃の面接時破天荒!「酔いどれ天使」の大抜擢へと

酔いどれ天使次の作品、「酔いどれ天使」で三船敏郎がはじめて黒澤作品に登場する。この「酔いどれ天使」はその当時の若者におおきな影響を与え、街のやくざ、チンピラは三船の劇中でのスタイルを真似た。酔いどれ天使は毎日映画コンクールの日本映画大賞に選ばれこの年のキネマ旬報のベスト1にも輝く。三船は映画界に入る...

≫続きを読む

海外に評価される前の黒澤明×三船敏郎 「静かなる決闘」「野良犬」「醜聞」

静かなる決闘東宝を離れた黒澤は、1949年、大映で「静かなる決闘」を製作。ストライキ中に作った「映画芸術協会」の協会第一作目となった。前作「酔いどれ天使」で三船が演じたやくざは彼が持つ魅力にはまり当たり役となったが、本作では誠実なインテリの医者役を三船に振り当てた。黒澤の兼ねてからの主張である、「前...

≫続きを読む

黒澤明も三船敏郎も「羅生門」出品されていたこと知らなかった!ヴェネツィア国際映画...

羅生門1950年、大映で「羅生門」を製作。芥川龍之介の小説「羅生門」と「籔の中」をベースに橋本忍との共作で脚本を仕上がる。元は橋本が持っていた脚本「雌雄」が原型。撮影は黒澤の希望で大映のキャメラマン宮川一夫が担当する。当時はフィルムが焼けるとしてタブーとされていた太陽に直接カメラを向けるという撮影を...

≫続きを読む

黒澤明「生きる」は宮崎駿も絶賛!「白痴」はさんざんであったと回想

白痴1951年、ドストエフスキー原作の「白痴」を松竹で製作、公開。松竹との間では前後編2部作で4時間半に及ぶ大作として、契約が交わされてたはずであったが、いざ完成すると、暗いだの長いだの難癖をつけて、結局2時間46分に短縮されて上映された。今日だったら裁判沙汰であろうエピソードだが、当時は泣く泣く受...

≫続きを読む

黒澤明の七人の侍は通常7倍の予算で制作!三船敏郎とのコンビの最高傑作

1954年、1年以上の製作期間と2億1千万円というと当時の通常の7倍ほどの破格の制作費をかけて作された「七人の侍」が公開される。アメリカの西部劇が大好きな黒澤が作った日本版西部劇ともいえる。「だいたい日本映画にはコッテリとした、たっぷり栄養のある娯楽作が少ない。この辺でそういう味の満喫できるものを作...

≫続きを読む

三船敏郎「蜘蛛巣城」撮影で「俺を殺す気か?」と黒澤明にキレた!?

賛否両論「生きものの記録」1955年、原水爆の恐怖を描いた「生きものの記録」を製作。核兵器の恐怖に狂っていく老人を主人公にしたドラマである。志村喬が演じるかと思いきや、主人公の老人は35歳の三船敏郎に振り当てられた。三船の老け役はちょっと無理があるように思われたが、生気あふれ、次第に狂っていく老人を...

≫続きを読む

黒澤明独立は東宝側が黒澤にリスク負担させる為だった!「隠し砦の三悪人」は「七人の...

隠し砦の三悪人1958年、娯楽時代劇の傑作「隠し砦の三悪人」を製作。黒澤作品初のスコープサイズでの作品。理屈なしの徹底的に娯楽を追及した大活劇である。第9回ベルリン国際映画祭では監督賞を受賞、日本国内でも大ヒットを記録した。ジョージ・ルーカスの代表作「スターウォーズ」は「隠し砦の三悪人」からアイデア...

≫続きを読む

用心棒外れれば黒澤明は終わりだった!三船敏郎の演技は海外で絶賛!

名作「用心棒」1961年、これが外れれば黒澤プロも終わりという中で、時代劇の傑作「用心棒」をドロップ。「用心棒」は大ヒットし、ヴェネツィア国際映画祭では三船敏郎が主演男優賞を受賞。黒澤プロダクションはこの作品で名声とともに経済的にも大きな成果をあげた。後にセルジオ・レオーネ監督、クリント・イーストウ...

≫続きを読む

黒澤明「天国と地獄」は刑法改正のきっかけになった!「赤ひげ」は三船敏郎との最後の...

推理映画の傑作「天国と地獄」誘拐をかねてから恐れていたという黒澤が、たまたま読んだというエドマクべインの小説「キングの身代金」にインスパイアされ製作したのが、1963年公開の「天国と地獄」である。長男の久雄は当時17歳で誘拐の恐れはないが、長女の和子は8才と幼く有名人子弟の営利誘拐の可能性は否定でき...

≫続きを読む

黒澤明が東京五輪を撮っていたら、日本映画界は一時パニックになっていた!

1960年、黒澤は日本オリンピック組織委員会から、4年後の東京オリンピック公式記録映画の総監督をお願いしたいとオファーを受ける。東宝の森岩雄の勧めもあり、黒澤をこれを引き受ける。ローマオリンピックへ下見に行き、綿密な計画を立てて黒澤が出した試算は約5億円であった。今でいうと20億円ぐらいだろうか。こ...

≫続きを読む

黒澤明いざハリウッドへ 暴走機関車でハリウッドビジネスに惨敗

日本映画界で頂点を極め、世界でも指折りの監督となった黒澤明。しかし彼が描く映画のスケールは日本の映画界では実現困難な時代となっていた。いよいよ世界へ出ていくより道が無くなった黒澤。「赤ひげ」が公開された後、黒澤は東宝と手を切りたいと考えており、もうすぐ切れる東宝との専属契約は更新しない考えであった。...

≫続きを読む

黒澤明とトラ・トラ・トラ!「一流の監督が必要だ、クロサワを獲れ!」20世紀フォッ...

「暴走機関車」の企画が迷走していたころ、20世紀フォックスのプロデューサー、エルモ・ウイリアムスが「トラ・トラ・トラ!」の企画を黒澤プロに打診していた。日米開戦のきっかけである「真珠湾攻撃」を題材にした映画。トラ・トラ・トラとは「真珠湾攻撃に成功した」という日本軍のモールス信号である。黒澤ファンのエ...

≫続きを読む

黒澤明とトラ・トラ・トラ!語り継がれる信じ難い事件簿たち

照明器具落下事件12月4日、プロデューサーのエルモは9時に撮影所入り。スタッフは準備に余念がない。しかし黒澤はまだ来ていない。彼は前夜から今朝まで酒を飲み続け、睡眠薬も服用。現場に現れたと思ったら機嫌が悪く、カリカリしていてスタッフを怒鳴りつける。スタッフは対応に戸惑う。今日も現場を見学しようと午前...

≫続きを読む

黒澤明とトラ・トラ・トラ!被害妄想!ヤクザ姿のエキストラに恐怖!

京都を離れ、ハワイ真珠湾の撮影現場に戻ったエルモ・ウイリアムズは、この映画の正念場とも言うべき戦闘場面の撮影準備の大詰めに追われていた。ところが、京都にいる製作主任からはトラブルの報告が続く。エルモは苛立つ。ハワイの撮影は文字通り命がけ。改造したゼロ戦編隊を生身のパイロットが飛ばし、米海軍から借りた...

≫続きを読む

黒澤明とトラ・トラ・トラ! 精神崩壊していく黒澤と呆れる現場スタッフ!

エルモの再来日と黒澤の自滅撮影現場の混乱が収まらない!と、エルモに連絡を入れ続ける現場責任者のスタンリー。それを受けて一度は監督降板の覚悟を決めつつ、エルモ自身が京都にやってくる。現場で聞こえてくるのは黒澤の奇行、体調を崩しての撮影中断、「果たし状事件」「ヘルメット・ガードマン事件」など、コントのネ...

≫続きを読む

黒澤明とトラ・トラ・トラ! 止まらぬ奇行についにクビ宣告が!

12月22日、黒澤はエルモを撮影現場に呼ぶ。ステージ入り口からセットまで赤じゅうたんが敷かれ、ファンファーレが鳴り、スタッフは直立不動で、エルモを迎えた。キャメラ脇の椅子までエスコートされたエルモは黒澤に、「ヘルメットを着用してください。照明器具が落ちてくるかもしれません。」と言われる。その途端、天...

≫続きを読む

黒澤明と四騎の会 「どですかでん」で初カラー作品を発表

「トラ・トラ・トラ!」の解任で大きなダメージを受けた黒澤は、アメリカ映画に頼らず、日本で映画を作る道を選ぶ。日本映画界の精鋭を結集して力を合わせて日本映画を復興させる。まずはお金の掛からない低予算で映画を作ろうというコンセプトで、木下恵介、市川崑、小林正樹らに呼びかけ「四騎の会」という芸術家集団を結...

≫続きを読む

黒澤明「影武者」で世界的復活!「乱」は人生の集大成映画と言える壮大な戦国絵巻!

影武者ソ連に渡って制作した「デルス・ウザーラ」は世界中で評価され、復活の足掛かりをつかんだ黒澤は、次に壮大な戦国ピカレスクロマン大作「乱」を企画するが、制作費があまりにも巨額ということで、前哨戦として「影武者」を撮ることになった。「影武者」>もまた予算が確保できず、制作が難航したが、黒澤を敬愛する「...

≫続きを読む

黒澤明 歴史

1910年(明治43年)3月23日、東京府に生まれる。父・勇(45歳)、母・シマ(40歳)の間の四男四女の末っ子である。1916年(大5) 6歳森村小学校に入学。1917年(大6) 7歳小石川区西江戸川町へ転居。黒田尋常小学校へ転校。1918年(大7) 8歳立川誠治先生が担任となり絵に興味を持つ。同...

≫続きを読む