当時、三船の右腕として働いていた田中壽一は、黒澤と三船が巷で言われるより、もっと親しい関係を築いていたと話す。
昭和51年頃だったか、黒澤さんが会社にやってきて、「娘の和子が結婚するんだ」と話されたんです。
相手は加東大介さんの息子さんで、三船さんも私もよく知っていた人です。
私がお祝いを言うと「だけど、和子がイタリーで挙式したいと言っているんで、一千万円欲しいんだ。なんとか出来ないかな。」
と相談されました。
黒澤さんの方も一千万円借りるのに、何か担保が必要だと思われたのでしょう。「なにがいい?」と聞かれたので、「三十郎の脚本はどうですか」と答えました。
『椿三十郎』の続編です。
黒澤の返事はそれならあるんだ、というものであった。
黒澤が田中に話したアイデアはすでに具合的な映像も音声も細やかに出来上がっていた。そのアイデアを聞いて、「それは最高です!」となって。やりましょうと。
予算は5億円という提示でした。
私は三船さんが会社に戻ってきたときに、黒澤さんの話を伝えました。三船さんが1000万円ではなく、1500万円を渡してあげなさい、と言ったので、後日、黒澤さんに渡しました。
それから東宝に行って、藤本さんと松岡さんに5億で黒澤監督が三十郎を撮ると言う話をしたら、2人は同意してくれました。
「予算は7億円出す。黒さんは必ず予算をオーバーする人だから、黒さんに5億、残り2億は三船プロでもっておきなよ」と言われました。
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三十郎ではなく、一文字景虎になった
これでまた黒澤監督と三船さんが組んで映画が撮れるって喜んでいた田中であったが、後日、黒澤に合ったら、脚本がまとまっていて、すごい分厚い脚本になっていたという。
その脚本は、三十郎ではなく、のちの『乱』のシナリオだったんです。
田中は驚き、「黒さん、これは用心棒とは違うんじゃないですか」と抗議した。
「いや、今は書きたくてしょうがなかったんだ。書いてみたらこうなったんだ」
そして、黒澤は10億円の予算をくれと言った。田中はスクリプターの野上照代氏を呼んで、「この脚本を読んで、予算がいくらかかるか算出して欲しい」とお願いした。
彼女は一週間ほど時間をかけて読み、「壽一ちゃん、これは10億どころか20億、いや30億は掛かるよ」という結論を出した。
だけど、私としては脚本自体は悪くないし、黒澤・三船の組み合わせでやれるのなら、それだけの価値はあると思って、また東宝へ相談しに行ったんです。
藤本さんは「そこまでは出せない。三十億なんて無理だ。難しい」という答えでした。
東宝東和へも行って企画を説明したんですけれど、やはり無理ということでした。
こうして三船敏郎が主演する『乱』の企画は無くなった。のちに実現した『乱』の主役はご存じの通り、仲代達矢。
では、三船プロが黒澤に渡した1500万円はどうなったのか。田中はこう語る。
三船さんにしてみれば、黒澤監督とまた作品が作れるという喜びと、よく知っている2人が結婚するのだから、結婚祝いのつもりで渡したと思うんです。
企画は潰れても、その金を返せとおいう気持ちはなかった。私もまた、そういうことには口を挟みませんでしたから。
黒澤明と三船敏郎の奇妙な関係
三船の口癖があったという。
「ガッデム!」
「バカヤロウ!」
「ざまあみろ!」
特に「バカヤロウ!」「ざまあみろ!」は関係者ならだれもが耳にしている定番フレーズであった。
夏木陽介は、黒澤と三船の中を「不思議な関係」と振り返っている。
地方での撮影が終わって、翌日、二日酔いで三船さんが起きたときなんか、よく「黒澤明のバカヤロウ!」と怒鳴ってましたね。それがまた、旅館中に響くような大声で、スタッフみんなに聞こえていたと思います。
でもいつだったか、そこに黒澤さん本人がやってきて、三船さんといっしょになって「黒澤明のバカヤロウ!」と怒鳴ったんです。
黒澤さんは驚いている三船さんに向かって「気持ちがいいもんだね、これは」と言って平然としていましたね。
これを近くで見ていた夏木は、ゾッとしたという。なんとも理解し難い奇妙な関係であると。
好き嫌いも通り越した、お互いを認め合い、憎み合う特別な関係であると。
このページの参考文献
※ サムライ 評伝 三船敏郎(文集文庫)
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