三船敏郎と仲代達矢の大喧嘩!そして五社監督に三船が土下座?!

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『御用金』降板事件

『風林火山』の製作の直後、マスコミを騒がす事件が起きた。昭和44年公開の『御用金』途中降板劇である。

 

この作品はフジテレビと東京映画の製作で、東宝の配給。

 

監督はこれが映画5本目となる五社英雄だった。主演は仲代達矢と丹波哲郎。

 

日本初のパナビジョンカラーで撮影するという触れ込みだった。

 

田中壽一は疲れ切っている三船を休ませようと、反対したというが、結局三船の性格上断り切れなかったという。

 

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三船さんは『風林火山』の撮影や諸々で相当体力を消耗していました。休ませないと駄目だと思ったので、反対したんだけど、三船さんは心根が優しい人だから、藤本さん(東宝重役)に「仲代とは古い付き合いなんだから、ちょっと手伝ってやってくれ」と頼まれて「手伝いますよ」と答えてしまった。

 

撮影は真冬、しかも青森の寒いところでやるので「本当に辞めた方がいいですよ」と説得したんだけど、三船ちゃんは「仲代ちゃんが主役ならやってやらんといかんよ」ちお答えて現場へ行ってしまった。

 

だが、田中が予想していた以上に現場は酷かった。場所は青森県下北半島の突端。三船は烈風吹き荒れる極寒の現場で、つながれたままの状態の撮影を3日間続けた。

 

「僕が現場にいたら、三船さんの扱いに対して、絶対怒ったと思うんだけど、あとでスタッフは『三船さんには丹前を持っていったりした』と弁解されましたけどね。

 

尋常じゃない寒さですよね。それで三船さんはこんな現場ではやってなれないと思って、仲代と大喧嘩したあげく、帰ってきてしまったんです。

 

喧嘩はロケ先の宿屋で始まった。

 

三船と仲代が酒を酌み交わしながら、演技の話をしているうちに口論となり、仲代が手元の台本を三船に向かって投げつけたのだ。

 

仲代また相当に酔っていたのだろう。台本を投げつけるという行為は。役者としては絶対にやってはならない行為だ。

 

この態度に怒った三船はすぐにタクシーを呼んで宿屋を飛び出し、翌朝青森を出る一番列車に乗って帰っていった。

 

帰ってきた三船に田中は、「それはまずいですね。降りるのなら挨拶に行かなくては」と話したが、三船は「いや、あの現場にはもう二度と行きたくない」と答えた。

 

そのときは銀座のホステスだった愛人の部屋に一人だけでいたという。

 

翌日からマスコミが「ミフネ・エスケープ」と報道し、騒ぎ立てた。

 

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半月後、三船の代役を仲代とも親しかった中村錦之助が引き受けたことでなんとか騒ぎは収まったものの、三船はこの一件でひどく落ち込み、悩んでいたという。

 

一旦引き受けた仕事を途中で放棄したのは、三船にとって初めての経験だった。すでに撮影済みだったシーンもある。

 

それらの経費も含めて、どれほど多くの人たちに迷惑をかけたのだろうか、と考え込んで眠れぬ日々が続いた。

 

田中が説得して、先方に詫びを入れに行った。

 

日枝神社の近くに長谷川一夫さんが経営する料亭があったんです。そこに五社さんと藤本さんと東宝のプロデューサーの佐藤一郎さんに来てもらって、こちらは三船さんと私の2人で行きました。

 

その場で、三船さんは『この度は多大なご迷惑をかけました。どうぞ、お許しください』と両手をついて詫びたんです。

 

五社監督は『いやいや、もう頭をあげてください。すでに撮影は終わっていますから』と言われて、手打ちをしたわけですが、三船さんは悔しがっていましたね。当時の五社さんはテレビの演出中心の監督さんだったですから、帰りの車中ではボヤいてましたね。

 

現在ではテレビのディレクターが映画監督をするということは珍しくないが、デビューから昭和40年代までに、山本嘉次郎、谷口千吉、黒澤明、稲垣浩、成瀬己喜男、木下恵介、森一生、岡本喜八、小林正樹など、喫水の映画監督たちと仕事をしてきた三船にとって、五社英雄監督はテレビ業界の人間という意識が強かった。

 

その前で土下座して詫びたというのは、多数の映画関係者、スタッフたちに申し訳ないことをしたという一念からだった。

 

後日、三船と田中は場所を変えて、仲代達矢に会い、改めて謝罪したという。

 

一方で司葉子は、田中壽一とは違った見解を話している。

 

あの映画の時、わたしも三船さんとご一緒していたんです。私はロケに行くとき、三船さんと同じ夜行列車に乗りました。寝台車でお酒を飲まれていたのかな、三船さんは『ガッデム、ガッデム』と繰り返し言っていられた。翌日にロケ地についたら仲代さんが三船さんに『ご苦労さまです』と言われたんです。それが三船さんにとって気に食わなかった。

 

三船さんは客演じゃなくて、同じ立場で出演していると思っていたのでしょう。確かに仲代さん主演だから、『出演して頂いてありがとう』という気持ちだったのは普通のことですが、三船さんは神経が細かい分、気難しいところもありました。

 

お客さんのような扱いをされたので三船さんが怒られたのかな、と私は受け止めていました。

 

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三船は不器用と言えるほど、対人面では謙虚であり、正直に生きてきた。だが、豪胆に見える外見とは裏腹の繊細さを理解できる人間は限られていた。

 

この事件についての仲代達矢の見解はこの通りである。

 

映画としてはとても面白い作品が出来上がったんですけれど、撮影中にひとつ事件がありましてね。

 

萬屋錦之助さんがされた私の相手役は、最初は三船敏郎さんだったんです。「ずいぶん仲代君を斬ったからね。今度は脇で出るよ」と。

 

ただまあ、三船さんという方は普段はとてもいい人で気も大変遣われる方なんですが、お酒が入るとちょっと乱れるんです。

 

それでだんだんと荒れてきて、こっちも悪かったんでしょうけど口喧嘩になってしまいまして、それで「こんな映画、俺の出る映画じゃないんだ」「じゃあ、降りろ!」ってなことになってしまって。

 

監督は「それはモヤ(仲代の愛称)が悪いんじゃない」とおっしゃってくれましたし、藤本さんも「大丈夫だ、代役を立ててやるから」と。

 

三船と仲代は、五社英雄監督は別として、黒澤監督作品では

 

『七人の侍』
『用心棒』
『椿三十郎』
『天国と地獄』

 

の4作、他の監督作品も含めれば10作以上共演しているのだが、やはり馬が合わなかったのか、親しい関係は築けなかった。

 

※サムライ評伝 三船敏郎(文春文庫)より抜粋

 

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