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黒澤明VSハリウッド
日本映画界で頂点を極め、世界でも指折りの監督となった黒澤明。
しかし彼が描く映画のスケールは日本の映画界では実現困難な時代となっていた。
いよいよ世界へ出ていくより道が無くなった黒澤。
「赤ひげ」が公開された後、黒澤は東宝と手を切りたいと考えており、もうすぐ切れる東宝との専属契約は更新しない考えであった。
黒澤はアメリカで起きたある事件から次の映画のアイデアを得ており、新東宝設立の立役者である青柳哲郎に、「外国のどこでもいいから、俺に賭けて映画を撮らせてみようというところを探してくれ」と連絡していた。
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ある事件というのはアメリカ・ニューヨーク州で、四台連結のディーゼル機関車が動き出し、機関士を振り飛ばして運転が出来ない3人の男をのせて、最高時速145キロで1時間45分に渡り暴走した事故である。
黒澤はこの事件を題材とした映画を作ることを、かなり早くから密かに心に決めていたようで、この企画を考えた黒澤の動機は、「子供の頃から機関車が大好きだったから」らしい。「一度でいいから、機関車を主題にした映画を撮りたかった」とも語っている。
これを映画化するという企画に、クロサワ映画ファンを自認するタイム・ライフ社のへドリー・ドノバン会長がわざわざクロサワの自宅を訪れ、この企画に積極的に係わりたいとの旨を伝えていた。
そしてドノバンの友人であるエンパシー・ピクチャーズのジョセフ・レビン社長が、英訳された企画段階の脚本に惚れ込み、黒澤プロとの間で契約交渉が始まった。
レビンは、
「クロサワがアメリカで初仕事の相手に私を選んでくれたのは大変光栄だ。」と話し、「クロサワのハリウッド進出は、四半世紀前アルフレッド・ヒッチコックが英国から来たとき以来の快挙だ」とも語った。
黒澤原案の脚本を英語の芝居の台本にするにあたり、アメリカ側のシナリオライターの援助が必要なことは黒澤も承知していた。
当初黒澤は、
「映画という、同じ世界で仕事している人間たちの間に言語の壁が障害になるとは思わない。」
「カラヤン(世界的指揮者)はタクト(指揮棒)一本で世界中の人々に自分の音楽を理解させ、画家は絵筆1つで世界中の人に自分の考えを伝える。自分にキャメラとフィルムを渡してくれれば、僕は世界中の人に理解してもらえる映画を創れると確信している。」
「映画は言語を超越して心に響く。」
共同で脚本執筆した菊島も「映画に国境はない。」と延べており日本語のシナリオを英語に訳すということを楽観視していた。
しかし日本語の脚本を、そのまま翻訳するのではなく、”アメリカ映画の台本として通用するように英語で書き直す”というプロセスに、危険な落とし穴があることを、黒澤はまったく気にしていなかった。
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掛け値なしに優れている脚本は、キャロル稿だ
映画評論家であり映画監督でもある原田眞人氏が『暴走機関車』について以下のように語っている。
※河出書房新社 生誕100年総特集 黒澤明 永久保存版より
『赤ひげ』の後、クロサワはハリウッドを意識していた。一足早く三船が「世界のミフネ」として海外で活躍している事実も拍車をかけた。『暴走機関車』は黒澤が絶えず意識してきたアメリカ映画への、キャリアの集大成といった挑戦状であり、その気迫にふさわしい映画史の傑作となるはずだった。
それがなぜ頓挫して、ついにはアンドレイ・コンチャロフスキーの白鯨風冒険アクションに堕してしまったのか。
結論から言えば、『暴走機関車』がハリウッド発の名作となる可能性があったのは、製作にジョセフ・E・レヴィンが絡み、シドニー・キャロルが脚色し、主役にヘンリー・フォンダが名乗りをあげたときである。
これをクロサワが受け入れなかった。脚色に不満があったのだ。フォンダの役は暴走を阻止するために次々と秘策を繰り出す鉄道安全管理のディスパッチャー、フランク・バーストゥである。
この役にキャロルは入れ込み過ぎた。オリジナル脚本にはない「幻想」を足してしまったのだ。フランクのイメージの中で、暴走する機関車は自由を求めて疾走する白馬に重ね合わされたのである。
たびたび挿入されるこの「下世話」なフラッシュイメージにクロサワは激怒した。「あんなもん、みっともないよ」
後年、僕がそのことを訪ねた時も、黒澤監督は20年前の不愉快を思い出して、一言で斬って捨てた。
不用意に馬を使われたことに対する怒りも加味されていたように思う。馬のスペシャリストでもある黒澤監督に、彼が描いてもいない「白馬」を足してしまったのは、確かにキャロルの不注意であったかもしれない。
コンチャロフスキーの映画化作品への嫌悪はもっと強かった。機関車を暴走させてしまう脱獄因2人を、刑務所内部でのエピソードからから描いてしまったことにひどく腹を立てていた。「必要ないんだよ、あんなものは。機関車が動き出して映画が動くんだから。」
キャロルの脚本の場合、白馬インサートは確かに勇み足であったにせよ、今となってみると、これはヘンリー・フォンダの要求であったようにも思える。それも、当時の大スターのエゴといったものではなく、役を掴むために必要なひとつのとっかかりとして脚本家に頼み込んだものではないだろうか。
いづれにせよ、監督にゆとりがあれば、話し合いで解決できるはずだった。これは甘い観測でもなんでもない。1973年以降、ハリウッドのシステムを観察し、ロスで生活することでシステム侵入を謀っている僕の、体験に基づく観測である。
脚色に対する意見の相違があったところで、フォンダを味方につければ、如何様にでも難局を処理できたのである。しかもフォンダはハリウッドでも有数のクロサワファンであった。クロサワ映画に主演を張ることに、無上の喜びを感じていたのである。
白馬インサートに固執していたとしても、監督の意図を伝えることで懇意したはずだ。もし脚本家や製作者がそのインサートに固執していたとするなら、監督の意図のい代弁者となって、彼らの過ちを是正したはずである。
僕自身、ヘンリー・フォンダがミフネの両手を握りしめ、いかにクロサワ映画のファンであり、ミフネのファンであるか、共演できたこを誇りに思っているか、誠意と知性にあふれたまなざしで熱っぽく語りかけた現場に居合わせたことがある。そのようなフォンダを、クロサワが使いこなせなかったことは不幸である。
僕は黒澤・小国・菊島によるオリジナル脚本と、その翻訳版、そしてシドニー・キャロル稿を読み比べたことがある。
掛け値なしに優れているのは、キャロル稿だ。オリジナルはそれはそれで素晴らしいものだが、最大の難点は日本人作家たちが、作り上げたアメリカ人像にあった。
暴走機関車に乗り込む脱獄因2人の主従関係では「アンクルトムの小屋」以降使い古されたパターンであり、囚人としてのリアリティにも欠けていた。
しかも、2人が口を開くとスタインベックの「20日鼠と人間」になってしまう。いくら黒人が最後にヒロイックに自立する話といえ、これではアメリカ人観客の失笑を買ってしまう。
この2人にディスパッチャーの2人が絡んで主役ふるーぷを形成し、隠し玉とsて、「砂まき係」のチャーリーが加わる。こちらのふたりはセリフを洗練すればそのまま使えそうなリサーチの成果が見られた。つまり、出発点としては間違っていない脚本だが、完成品ではなかった。
その翻訳稿となると、あくまで翻訳があって脚本の生命線であるダイローグがまったく機能していない、、翻訳家は脚本ではないのだから、これは当たり前のことなのだ。
それゆえ、アメリカ側は翻訳稿を出発点として、映画脚本を完成する作業に入ったの訳である。しかし、クロサワは翻訳稿が限りなくゴールに近いものと考えていたようである。
シドニー・キャロルの脚本は、構成的にはほぼオリジナルの流れを踏襲している。確かに白馬のインサートなど入り、「解説」的側面が目立たなくもないが、スタインベック臭も薄められて、ダイアログが文句なし。
製作のレヴィンもフォンダも、予想以上の出来に喜んだのではないだろうか。それにクレームをつける以上、日本側はしっかりとした論点を構築する必要があった。そこが日本で数々の名作を放ち続け絶頂期にあった黒澤明が見極められなかったものではないだろうか。
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日本の映画製作システムはあくまでの監督中心なのに対して、ハリウッドのシステムはプロデューサー中心であって、監督は撮影部隊をまとめ上げる現場監督のような感じなのっでしょう。
監督が特に偉いといった日本の感覚ではなく、それぞれのプロが分業して決まったことを遂行していく。監督はそれぞれのプロを尊重して誠意ある対応をとる。
いわば、ハリウッドでの監督業は雇われ店長みたいなしんどくてめんどくさい仕事なんでしょうね。
黒澤は脚本、撮影、演出、編集をこなすということもあり、他人には分からなくでも自分の中にあるイメージを呼び起こさせるような脚本で今までは問題はなかった。
しかしそれではアメリカ側のスタッフは動かないので、アメリカ流に書き直してくれという駄目出しを受けては修正して提出してをそれを繰り返した。そのうちアメリカ側が構成にまで踏み込んで来る。
「アメリカ人の考えは俺たちと大分違うな。今度はアメリカ人の為のアメリカ映画だから。ラストなんか俺のシナリオでは、アメリカじゃ駄目だっていうんだ。」
と黒澤は途方にくれてしまう。
初めてのハリウッド進出で若干弱気でもあった黒澤。
シナリオ執筆に当たって両者の調整がつかず、一年延期となり、結局黒澤はこの映画から撤退した。
撤退の原因は、初のアメリカ映画進出で弱気になっていた黒澤と、日本側プロデューサー青柳哲郎の製作経験不足ではないかと言われている。
この映画は黒澤のシナリオを原案として1985年にアンドレイ・コンチャロフスキー監督で映画化された。
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脚注
※1 文藝春秋発行 小林信彦著書 「黒澤明という時代」より抜粋
※2 やのまん発行 塩澤幸登著書 「黒澤明 大好き!」より抜粋
※3 毎日新聞社発行 堀川弘通著書 「評伝 黒澤明」より抜粋
※4 河出書房新社発行 「黒澤明 生誕100年総特集」より抜粋
※5 文藝春秋発行 田草川弘著書 「黒澤明VSハリウッド トラ・トラ・トラ!その謎のすべて」より抜粋