『赤ひげ』以降、黒澤明監督、三船敏郎主演の映画は実現しなかった。
不仲説もあるが、色々な関係者の証言をまとめると、嫌いになって離れていったわけではなさそうだ。
ただ、一筋縄ではいかない、なにか長年連れ添って熟年になって離婚した夫婦のような感じもする。
このページでも、また関係者の証言を追っていきましょう。
スポンサーリンク
女優・司葉子の見解
黒澤監督も色々な俳優さんを使って、映画を撮られましたけど、他の作品では俳優をその役にはめようとして役を作ってらっしゃいますね。作り過ぎというか。
三船さんの場合は、役の魂から入り込んでその中で生きている。生きている人間を演じている。
ある意味で、黒澤さんと三船さんは波長が一致している面があったと思います。
監督を怖かったという人がいますけど、本当は優しい方なんです。私が撮影所に行った初日でしたが、黒澤さんは私を気遣って、抱え込むようにして現場につれて行ってくださったんです。
三船さんの繊細さとどこかで共通しているというか、根底の部分で合っていたんだと思います。
だkど、作品に対してはお互いに厳しくて、どこまで出来るか、追求なさっていた。
その意味でもお二人は一致していたと思いますね。
他の役者さんは、黒澤監督とは師弟関係でしょうけど、三船さんは役の入り方が根本的に違うから、監督とは同等の関係だったのでしょう。
司葉子
三船プロ 田中壽一の見解
田中壽一は、三船の右腕と呼ばれていた男。近くで見続けた男が、三船がどれほど深く黒澤監督に愛情を持っていたか、その思いの強さを示した。
三船さんは、細かな行き違いやすれ違いはあっても、黒澤監督とまた仕事がしたいと、ずっと願っていたんです。
撮影中に、誰かがおべっかのつもりで三船さんに対して黒澤監督の悪口を言ったら、本気でもの凄く怒っていましたからね。
三船は、酔って黒澤監督の悪口を言うことはあったが、他者が黒澤の悪口を言うことは許さなかった。
愛情があって不満を言うのと、ただ現場で見聞きして人間が監督の不満を言うのは、全然違う次元の話だということでしょう。
そして田中は黒澤監督もまた、三船と仕事をやりたがっていたと語る。
『デルス・ウザーラ』のウザーラ役は最初、三船さんの出演で話がきたんですよ。黒澤さんと私と三船さんと3人で話したんですから。
私は三船さんを一年は渡す。だけど、それ以上になったら困る、という話はしました。
でも黒澤さんの場合は1年の予定が3年になったり、10億の予算が20億になったりすることがある監督さんですから。
それに、当時三船さんは2本のテレビ番組に出演していた。撮り貯めしても、長期間日本を留守にするのは難しい。
三船さんはやりたがっていましたが、そういう事情もあって、専務だった私がお断りしました。
長男史郎氏の見解
三船の長男の史郎氏はどう思っているのか。世間で言われている不仲説を一蹴するコメントを残している。
父は黒澤明監督が『デルス・ウザーラ』の撮影で、モスクワに滞在している時に、陣中見舞いのような形で、ミュンヘンに作ったレストランからおにぎりとか、料理をいっぱい作って、持って行ってたこともありました。
そこで父が監督に、「ちょい役でもいいから出してください」とお願いしたら、「三船ちゃんをちょい役では出せないよ」と言って、断られたという話を聞きました。
そういった関わり方はしていたので、お互いに喧嘩しあとか、なにかわだかまりがあったとか、そういうことではないと思います。
スポンサーリンク
『トラ・トラ・トラ!』騒動を受け、三船が黒澤を批判
『風林火山』の完成披露パーティーの席上で、黒澤がアメリカ・日本合作映画『トラ・トラ・トラ!』の監督を解任されたことについて、以下のように触れた。
この件は、黒澤氏が、理由がなんであろうとも、一方的に解雇されたという国際的な恥をかいたことに問題がある。
黒澤氏は契約書の内容を知らなかったというが、そんな非常識なことはありえない。
また、黒澤氏には十分に考えることがあってのことだと思うが、素人俳優の起用は日本の全職業俳優に挑戦状をたたきつけたことになる。
以後、もし黒澤監督が何かの作品を撮るような場合でも、協力できないような事件だ。
後になって、三船は発言内容について謝罪したが、「今後、黒澤監督の作品には協力できない」などとは。思っていなかったに違いない。
繊細でやさしく、気遣いの人・三船敏郎は、黒澤の辛さを痛いほどわかっていたはずだから。
三船はただ、単純に「素人俳優なんか使わずに、なぜ、山本五十六役で、俺を使ってくれないのか」と黒澤へ訴えかけていたのでしょう。
実際、黒澤が降板してから、改めて三船に20世紀フォックスのプロデューサーから、山本五十六役のオファーが来た。
その時に三船は出演条件として「黒澤明の演出」を外せない条件として提示したという。
三船プロ内にあった「黒澤プロダクション」の部屋
三船プロの元社員で、当時総務の仕事をしていた田島勝彦氏は、三船が本社事務所の一階に黒澤明に使ってもらうための『黒澤プロダクション』という木彫りの看板をかけた部屋を作ったことを覚えている。
部屋の大きさは、社長室よりも広く、30畳近くあったという。机や椅子、その他の備品も完備されていた。
その部屋には誰かが常駐ぢている訳でhあなく、いつもは無人でした。社長がその部屋を作ったのは、黒澤監督が成城の三船プロの近くに引っ越ししてきた時期で、『赤ひげ』の撮影が終わってから何年も後のことです。
ほとんど使われない部屋だったんですが、ただ一度、完成はされなかったんですが、史郎さんが出演した『サンドロップス』というフィルムの編集を、黒澤監督にお願いしたことはあります。
三船の黒澤への忠誠心というか、いつでも仕事をいっしょにやりましょう、というような姿勢がこの部屋の存在から垣間見れます。
このページの参考文献
※ サムライ 評伝 三船敏郎(文集文庫)
U-NEXT で三船敏郎出演作を観る(31日間無料)
1920年(大正9年)、4月1日、中国山東省青島に三船家の長男として生まれる。父の徳造は秋田県出身で、中国に渡り、青島、泰天、天津あたりに店舗を構えて「スター写真館」という写真店をやったいたという。日露戦争では、従軍カメラマンをやったという父。幼い頃から大連で家業を手伝い、写真技術に詳しくなった。大...
≫続きを読む
三船敏郎に惚れた黒澤明三船敏郎の衝撃デビュー作「酔いどれ天使」は、山本嘉次郎監督の「新馬鹿時代」で組まれた闇市のセットが大掛かりだったので、解体する前にもう一本撮っておきたいという都合から製作されることとなった。「日常性を描くなんて、もうごめんだね。俺の今やりたいのは逆に日常性の中からカアッと飛躍し...
≫続きを読む
三船と幸子夫人の結婚の媒酌人は、山本嘉次郎監督が務めた。挙式は青山学院大学の礼拝堂で行われ、幸子夫人は22歳、三船は29歳。お似合いの美男美女カップルであったという。三船の両親は二人ともお亡くなりになっていたため、親代わりとして志村喬夫妻が出席したという。「デビューからしばらく、父は岡本喜八監督とい...
≫続きを読む
三船敏郎は生涯に150本の映画に出演している。そのうち、黒澤明とのゴールデンコンビでの作品は16作品である。『酔いどれ天使』『静かなる決闘』『野良犬』『醜聞』『羅生門』『白痴』『七人の侍』『生きものの記録』『蜘蛛巣城』『どん底』『隠し砦の三悪人』『悪い奴ほどよく眠る』『用心棒』『椿三十郎』『天国と地...
≫続きを読む
三船敏郎と言えば、黒澤明監督の『羅生門』『七人の侍』『用心棒』などの映画タイトルを連想する人が多い。そう黒澤明とのタッグ作品である。しかし、昭和33年に公開された稲垣浩監督の『無法松の一生』を三船の代表作であるという人も少なくない。。稲垣監督と三船は、20本の映画を作っている。以外かも知らないが黒澤...
≫続きを読む
三船敏郎は「男のくせにツラで飯うぃ食うのは好きではない」と俳優業を嫌がっていた面があったが、いざ役を与えられたときには、骨身を削るほどの努力で監督の期待に応えようとした。撮影前にセリフを全ておぼえることなど、彼にとっては当然のとこであり、その努力は現代劇、時代劇に関係がなかった。『羅生門』にはじまり...
≫続きを読む
昭和39年当時、東宝は国内だけではなく、ホノルル、サンフランシスコ、ニューヨーク、ロサンジェルスに直営館を持っていた。ロスでの直営館『東宝ラブレア劇場』の運営を任されていた渡辺毅は元東宝撮影部の助監督。三船の海外映画のギャラの基準を作ったのが、この渡辺毅である。ストライキを起こし、お荷物社員として左...
≫続きを読む
スター街道を着実に進み、国際的にも認められる俳優となった三船。デビューから10年を経て、「東宝のニューフェース」から、「日本を代表する俳優」へ成長していった。海外からの出演依頼も増え、昭和36年には、初の海外進出となるイスマエル・ロドリゲス監督のメキシコ映画『価値ある男』に出演、。アカデミー賞外国語...
≫続きを読む
昭和43年、三船は杉江敏男監督、黒澤明・山中貞雄脚本の『戦国群盗伝』という時代劇に出演した。共演は鶴田浩二である。鶴田は前年に東宝と専属契約と結んでおり、松竹から移籍してきたことを強く意識していた。「何か三船だ!俺も天下の鶴田浩二だ!」と公言してはばからなかった。彼は三船とは正反対に、付き人を何人も...
≫続きを読む
昭和42年、成城9丁目の敷地に完成した真新しいステージでの第一作目は、小林正樹監督を迎えての時代劇『上意討ち 拝領妻始末』であった。しかし、小林が松竹の専属監督だったからというよりは、これまでつきあっていた監督たちとは違う資質の監督であったため、三船には苦しい経験となった脚本家橋本忍が回想する三船の...
≫続きを読む
昭和43年、三船敏郎と石原裕次郎は東映、東宝、日活、大映、松竹の5社が結んだ「監督や俳優は貸さない、借りない、引き抜かない」という協定に立ち向かった。当時の映画界にはこの「5社協定」を破ったものは、全ての社から拒絶され、映画界から追放されるという暗黙のルールがあった。三船は東宝、石原は日活とそれぞれ...
≫続きを読む
日本の映画市場は、テレビの出現によって1958年(昭和33年)をピークにして、斜陽産業になっていく。テレビだけではなく、娯楽の多様化も相まって、5年後には観客数が半減してしまい、映画産業自体が危機を迎える。大手プロダクションは事業規模を縮小せざる負えない状況であった。東宝はまず黒澤明に独立させると、...
≫続きを読む
映画業界は大手5社が「俳優、監督を貸さない借りない引き抜かない」という5社協定を結んでおり、これに背いた者は、暗黙の了解で干されるというルールが存在していた。大映社長の永田雅一の主導で成立したこのシステムは、1971年をもって自然消滅するまで15年以上にわたって続いた。元々は戦後日活撮影所が映画製作...
≫続きを読む
自社に本格的な撮影所を構えてからの三船プロは多忙を極めた。昭和42年の『上意討ち』にはじまり。同年の『日本でいちばん長い日』、43年には『黒部の太陽』『連行艦隊司令長官 山本五十六』『祇園祭』『太平洋の地獄』の四本に出演。そして昭和44年の『風林火山』と、7本の映画に立て続けに出演し、精神的、肉体的...
≫続きを読む
『風林火山』の製作の直後、マスコミを騒がす事件が起きた。昭和44年公開の『御用金』途中降板劇である。この作品はフジテレビと東京映画の製作で、東宝の配給。監督はこれが映画5本目となる五社英雄だった。主演は仲代達矢と丹波哲郎。日本初のパナビジョンカラーで撮影するという触れ込みだった。田中壽一は疲れ切って...
≫続きを読む
三船敏郎は、世間の評価とは別にスター気取りが嫌いだった。映画にかかわっている人間かは監督から主役、端役、その他大勢のキャストや、裏方などのスタッフにいたるまで同等の仲間と考えていた。それを如実に表すのが、宇仁が語る次のエピソードだ。『椿三十郎』の撮影のときは、一月か二月の寒い時期でした。斬られ役はみ...
≫続きを読む
勝新太郎は、かつたて三船と対談した日のことをこう語っている。「酒を飲みかわしながら話したんだが、一緒にいることでひとつ格が上がったなぁ、とフッと思えるような人だった…」三船敏郎は酒癖が悪いとか、酒乱とか言われているが、本当だったんだろうか?関係者の証言三船は気遣いが日常的、心根が優しく、几帳面、責任...
≫続きを読む
成瀬己喜男監督が死去し、黒澤明、木下恵介、小林正樹、市川崑ら4人が集まって『四騎の会』を発足させた昭和44年。三船は岡本喜八の監督・脚本で『赤毛』の撮影に入った。女郎役の一人だった名もなき女優この作品で三船は運命の女性出会う。三船の側近の田中壽一は、喜多川美佳についてこう語っている。『赤毛』には女郎...
≫続きを読む
三船プロを立ち上げてからの三船敏郎は、会社の大黒柱として、いろいろな作品に精力的な働かざるをえない状況であった。時代は映画からテレビへとシフトチェンジに移っており、国内での映画オファーや、三船プロの売り上げも伸び悩んでいたが、三船には海外からのオファーが絶えなかった。企画はかなりの数があったが、比較...
≫続きを読む
数々の名作を生み出してきた黒澤・三船の黄金コンビだが、昭和40年の『赤ひげ』を最後にして、二度と仕事を共にすることはなかった。そのため、監督と三船と関係に何か問題が起きたのではないか、という不仲説が今も流れている。ちまたの噂は「黒澤が三船の酒癖の悪さに嫌気がさして、使いたがらなかった」とか、「黒澤プ...
≫続きを読む
「うちの父が三船さんのことを嫌いだなんて言ったことは、一度もありませんよ。」そう断言するのは、黒澤プロダクション社長で長男の久雄氏だ。黒澤明が世界中から注目を浴びたのは、三船さんのお蔭だと思います。父は三船敏郎という役者の存在感をうまく生かして注目を浴びた。黒澤明の映画人生において、彼がいたことによ...
≫続きを読む
『赤ひげ』以降、黒澤明監督、三船敏郎主演の映画は実現しなかった。不仲説もあるが、色々な関係者の証言をまとめると、嫌いになって離れていったわけではなさそうだ。ただ、一筋縄ではいかない、なにか長年連れ添って熟年になって離婚した夫婦のような感じもする。このページでも、また関係者の証言を追っていきましょう。...
≫続きを読む
当時、三船の右腕として働いていた田中壽一は、黒澤と三船が巷で言われるより、もっと親しい関係を築いていたと話す。昭和51年頃だったか、黒澤さんが会社にやってきて、「娘の和子が結婚するんだ」と話されたんです。相手は加東大介さんの息子さんで、三船さんも私もよく知っていた人です。私がお祝いを言うと「だけど、...
≫続きを読む
スティーブン・スピルバーグ監督作品『1941』に三船が出演した昭和54年の8月末、三船の片腕と呼ばれ専務であった田中壽一が、三船プロの俳優のほとんどを引き抜き、独立するという事件が起きた。田中は竜雷太、多岐川裕美、秋野暢子、真行寺君江、夏圭子、岡田可愛、勝野洋、らのテレビで活躍する俳優25名と、社員...
≫続きを読む
三船プロに残った社員たちからは、「造反の首謀者」「裏切者」「恩知らず」の汚名を着せられた田中だが、三船敏郎に対うする思いは、愛の告白に近いほど深かったという。映画の企画や打ち合わせがあって、外国へ行った時、私は三船さんと一緒にいて、何度も身震いをしました。例えば、シャルル・ド・ゴール空港の税関で周囲...
≫続きを読む
三船プロを分裂させた上で設立した「田中プロモーション」は、高倉健主演の「駅 STATION」「海峡」「居酒屋兆治」などの話題作を次々と製作。最盛期の昭和57年には年商14億円を上げる絶好調っぷり。しかし、翌年昭和58年には、副社長だった阿知波伸介が竜雷太、秋野暢子らタレント15名を引き連れて独立。今...
≫続きを読む
三船プロダクションという会社が分裂してから、3年後の昭和57年2月11日、三船敏郎はまたしても悲な出来事に遭遇する。新人の頃から親のように慕っていた志村喬が病死したのだ。志村と三船は、谷口千吉監督の「銀嶺の果て」から熊井啓監督の「お吟さま」までの約30年間に、52本もの作品で共演している。男優の中で...
≫続きを読む
平成10年、1月24日に行われてた三船の葬儀・告別式では、生前に親しかった千秋実や香川京子らが弔辞を読んだが、黒澤明は体調不良で出席できず、息子の黒澤久雄が代読した。三船君、今日は君の葬式だというのに、僕がそこへ行けないということをまず、謝ります。いまだに足の調子が悪くて、表に出られないのです。僕も...
≫続きを読む