黒澤明とトラ・トラ・トラ!「一流の監督が必要だ、クロサワを獲れ!」20世紀フォックス社長が指令!

20世紀フォックスからの打診

「暴走機関車」の企画が迷走していたころ、20世紀フォックスのプロデューサー、エルモ・ウイリアムスが「トラ・トラ・トラ!」の企画を黒澤プロに打診していた。

 

日米開戦のきっかけである「真珠湾攻撃」を題材にした映画
トラ・トラ・トラとは「真珠湾攻撃に成功した」という日本軍のモールス信号である。

 

黒澤明 フィルムを切れ

 

黒澤ファンのエルモは、20世紀フォックス社長のダリル・ザナックに「羅生門」を見せて、黒澤起用の説得にあたったという。

 

社長ダリルのイメージは日米それぞれの視点から真珠湾攻撃を再検証し、日米双方の場面をバランスよく組み合わせて、一本の映画にまとめ上げる。

 

その為にはまず、しかるべき日本側の脚本家と監督を選定する必要があった。

 

社長ザナックから意見を求められたプロデューサーのエルモは、その両方を1人でこなせる人物として、躊躇なく黒澤を推薦した。

 

ダリルはフォックスの試写室で「七人の侍」と「羅生門」の2本を続けて見て大いに楽しんだという。

 

またダリルは親友であるジョン・フォード監督を黒澤が敬愛しているということにも感銘を受け、「一流の映画には、一流の監督が必要だ。よし、クロサワを獲れ」と号令をかけた。

 

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黒澤明と山本五十六

 

話を受けた黒澤は「暴走機関車」にのめり込んでいた時期であり、人間が作ったものが、ある日突然、あたかも自分の意思を持ち始めたかのように暴走し、人間にはそれを止めることができない。人間と機械との力関係が逆転してしまう恐怖、人間が機械の虜になるという「暴走機関車」のテーマが彼を強く刺激していた時であった。

 

黒澤明VSハリウッド

 

暴走機関車に専念したいと迷う黒澤に、青柳と取締役の菊島が説得にあたる。この企画は本格的なハリウッド進出のビッグチャンスだ、これを逃す手はない。

 

作品のスケール、予算、組織力、配給網、作品テーマの歴史的意義、そのどれを採っても「暴走機関車」をはるかに凌駕すると。

 

まずはこの真珠湾映画を完成させてから「暴走機関車」を撮ればいいんじゃないかと。

 

黒澤は周囲の説得にも心を動かされ、「トラ・トラ・トラ!」に取り組む決意をする。
またこの作品の主役・山本五十六と自分との間に、単なる偶然とは割り切れない共通点があったことに、運命的なものを感じたようだ。

 

フォックスからこの「トラ・トラ・トラ!」の話が来たのは、黒澤が五十六歳の時だった。

 

山本五十六連合艦隊指令長官が、真珠湾攻撃の実行を心に決めたのも、五十六歳の時。そして実際に攻撃が行われた時、山本は五十七歳。
黒澤もその同じ五十七歳で真珠湾攻撃の映画を撮る。

 

これがなんだか不思議で、単に偶然とは言い切れない因縁をこの「トラ・トラ・トラ!」に感じていたという。

 

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「暴走機関車」から「トラ・トラ・トラ!」へ、黒澤エンジンのガソリンは代わった。

 

菊島隆三、小国英雄らと100日あまり掛けて、200文字の原稿用紙が1000枚、そのまま全部映画にすれば7時間以上にもなる脚本第一稿が完成した。

 

そして1967年4月27日、20世紀フォックスと黒澤プロの合作「トラ・トラ・トラ!」の製作が発表された。

 

しかし合作とはいっても20世紀フォックス主導で、黒澤プロは事実上、協力であったと結果的に結論付けられる。

 

アメリカ側の監督は当初は、真珠湾攻撃を描いた名作「地上より永遠に」で有名なフレッド・ジンネマンが候補であったが、いつの間にか1段格落ちの感のあるリチャード・フライシャーが監督することになり、黒澤は繭をひそめる。

 

黒澤明VSハリウッド

 

黒澤はエルモに「もっと格の上の監督にかえろ」と要求。
しかしエルモは、
「少なくともフライシャーに対しては礼をつくせ。さもないとこちらにも考えがある。」と告げた。

 

この辺の監督起用に関しても、日本側プロデューサー青柳哲郎の力不足によるものと思われる。
社長ザナックからの電報を黒澤に知らせないなど、黒澤の承諾なしに事を運んだ形跡もあったという。

 

また電話帳ほどの膨大な契約書の中身や重要さを認識しておらず、結果的に契約社会であるアメリカ流のビジネスに呑まれてしまった。

 

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ハリウッド流VS黒澤流

脚本の第一稿「準備稿」は、英語に訳されて20世紀フォックス社に送られ、この第一稿を土台にして日米間を行き来しながら、28回に及ぶ修正、改訂、推敲を経て「撮影稿」として完成される。

 

脚本修正を依頼するフォックス側に対して、一歩も引かない黒澤。

 

苦戦するフォックス側は、脚本の完成までの作業について、社長ダリルが直接的に参加し、責任を持つ考えを示した。

 

ダリルは脚本を見抜く自分の眼力については絶対の自信を持っていた。

 

極貧の青年時代から脚本家を目指し、22歳の時にワーナーブラザーズの専属ライターとして雇われた後は、毎年20本近くの台本を書きまくった経験をもつ、脚本の名手である。

 

ダリルはまず自ら日本を訪れ、黒澤に直談判する。

 

毎年十数本の主要作品を世界に送り出すハリウッドの大会社20世紀フォックスの社長が、一本の企画の為に、日本の独立プロダクションの社長にわざわざ会いに来るという、とんでもない会談が行われた。

 

その後は、フォックス側エルモ、黒澤側の青柳を介さず、ダリルと黒澤のトップ同士で直接的に対話がされるようになり、2人の間に相互の信頼と尊敬の念が次第に芽生えていった。

 

黒澤はダリル・ザナックについて、
「ザナック爺さんて、いいね。ずかっとしている。」
「さすがだね。映画を良く知っている。ダリルが考えているシーンの捉え方やつなぎ方にはジョン・フォードのタッチを感じる」と語っている。

 

紆余曲折を経て、「撮影稿」の基本的な骨組みについては、フォックス側がクロサワ構想に大きく歩み寄るかたちで、最終的な調整が行われた。

 

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主役の山本五十六捜し

 

主役の山本五十六役他、日本側の主要キャストは、黒澤の提案で素人を起用するということになった。

 

・年齢42歳〜50歳ぐらい
・身長156センチ以上、168センチ以下
・山本五十六に似た人

 

という3つの条件で一般募集が掛けられた。

 

主役以外のキャスティングも並行して行われ、実際の海軍出身の出演者を捜して、助監督が走り回った。

 

五十六役には250件の応募があったが、黒澤のお眼鏡に適うものはなく、時間ばかりが過ぎていたそんなある日、黒澤は何気なしにある雑誌を手にとって、ページをペラペラめくっているうちに、一人の実業家の写真に目を奪われた。

 

なんと黒澤が頭の中で描いていた山本五十六長官の姿がそこに映っていた。

 

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翌日、都内のある大会社の社長室に、黒澤明は直々にその人物を訪ねて出演を依頼するが、断られる。

 

何度懇願しても、いくらこの映画の歴史的な意義を説明してもまったく駄目。
しかし、直接会って言葉を交わすうちに、黒澤の中に「この人しかいない」との思いが強くなり、辞を低くして再考を懇請する。

 

数日後、仕事の都合でどうしても出演は出来ないという内容の丁重な詫びの言葉が毛筆で書いてある手紙を受け取る。
黒澤はその手紙を何度も読み、逃した魚の大きさを噛み締めたという。

 

その人物はやがて政界の大物となる小坂徳三郎であった。

 

結局、五十六役は黒澤のアシスタントの推薦で目に留まった鍵谷武雄に決定する。
鍵谷は当時56歳で、年齢の因縁にこだわる黒澤はこれを天の啓示と感じようだ。

 

しかし、フォックス側は黒澤が素人俳優を多数起用するという計画を危ぶむ声が強く、特にプロデューサーのエルモは強く反対する。

 

しかし「クロサワがそれほどまで言うなら、やらせてみよう」
というダリルの決断で承認された。

 

ダリルは「七人の侍」「羅生門」でみた三船敏郎を切望していたが、三船は東宝配給の「山本五十六」に出演が決定したことにより、
三船の獲得は絶望的になったということもあり、クロサワがかつて無名の新人三船を国際的なスターに育てあげた手腕に賭けてみよう、というダリルの考えによるものであった。

 

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トラ・トラ・トラ!撮影スタート 

1968年、11月26日。日本側主要キャストのマスコミ関係者に対する顔見せが行われ、12月2日、撮影初日を向かえる。

 

黒澤は作品についてこう語っている。

 

「この作品は勝利の記録でもなければ、敗北の記録でもない。

 

一言で言えば、日米両国の誤解の記録であり、優秀な能力とエネルギーの浪費の記録です。つまり、典型的な悲劇の要素を根底にした作品といえる。

 

そして、戦争の中の人間性を掘り下げてみたい。困難の多い仕事になりそうだが、映画界だけではなく、日本政府や防衛庁、アメリカ政府や国防総省など、広く日米両国各方面の方々にも全面的なご協力をお願いしたい。」

 

「イメージがどんどん膨らんでいて、自分でも怖いくらいだ。」

 

「この映画を観たら、真珠湾攻撃はだまし討ちだ、なんてもう誰にも言わせない。」

 

「これはドキュメンタリーなんかじゃない。スペクタクルでもない。悲劇だ。本当は怖い怖いお話なんだ。」

 

「日本人とはこういう人間なんだという、本当の姿を世界中の人に見てもらう絶好のチャンスだ。」

 

「この映画は天皇陛下にも見て頂く。もしもヘンテコなものを作っちゃったら、僕は飛行機の窓をけり破ってハワイの海にドボーンと飛び込まなきゃならない。」

 

「とにかく、歴史にドーンと残る、どっしりした映画を創る。百年や二百年で古くなるような映画なら要らないよ。」

 

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しかし3週間後、20世紀フォックス社長ダリル・ザナックは黒澤を解任する

 

 

衝撃の解任劇はなぜ怒ったのだろうか?
東映京都撮影所での数々の黒澤の奇行伝説。嘘なのか本当なのか?
病気だったのか?否か?辞任か解任か?

 

真相を知る生き証人がほぼ他界している為、この黒澤解任劇の証言が少なく、謎に包まれたままの事件であるようだ。

 

以下文藝春秋 田草川弘著 「黒澤明VSハリウッド」より、
京都太秦撮影所で起こった黒澤の奇行の主だった事件を抜粋する。

12月4日 照明器具落下事件
12月6日 夏服事件
12月9日 果たし状事件 カーテンのしわ事件
12月13日 ヘルメット、ガードマン要求事件
12月14日 本棚事件
12月17日 ガラス割り事件
12月20日 鍵谷の控え室事件
12月23日 壁塗り直し事件 神棚事件 壁壊し事件 屏風事件
12月24日 解任通告

脚注
※5 文藝春秋発行 田草川弘著書 「黒澤明VSハリウッド トラ・トラ・トラ!その謎のすべて」より抜粋

 

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