スティーブン・スピルバーグ監督作品『1941』に三船が出演した昭和54年の8月末、三船の片腕と呼ばれ専務であった田中壽一が、三船プロの俳優のほとんどを引き抜き、独立するという事件が起きた。
田中は竜雷太、多岐川裕美、秋野暢子、真行寺君江、夏圭子、岡田可愛、勝野洋、らのテレビで活躍する俳優25名と、社員数名を引き連れて『田中プロモーション』を設立した。
田中についていかなかったのは、夏木陽介、かたせ梨乃、竹下景子、そして北川美佳ら、少数の俳優だけであった。
三船プロの組織は、製作部、企画部、総務部、芸能部、CM製作部に分かれており、このうちの芸能部とCM製作部は成城の本社ではなく、銀座に事務所を構えていた。
専務の田中は企画部、芸能部、CM製作部の最高責任者であり、本社と銀座を行き来しる日々だった。
当時、芸能部とCM製作部は、本社が映画製作で赤字を出しても、それを補うほどの収益を上げていた。
タレントのマネージメント料も会社にとって、おおきな収入源だった。
田中が千代田区麹町に『田中プロモーション』を設立したのは独立から2ヵ月後の10月26日。同日、発足を世間に発表するため、赤坂プリンスホテルで盛大なパーティが開かれた。
同プロの所属タレントは29名。スタッフは16名という大所帯であった。
当然ながら、所属俳優、スタッフの大量引き抜きは三船プロを激震させ、経営面にもおおきな打撃を与えた。
ここから三船プロの衰退がはじまっていく。
スポンサーリンク
田中壽一は解雇されたと主張
ここで、謀反を起こした張本人・田中壽一は、自ら会社を辞めたのではなく、解雇されたのだと話す。
岡本喜八監督の『英霊たちの応援歌/最後の早慶戦』という映画を撮る企画があって、明日がクランクインという日の夜中に伊藤満から電話があったんです。
「いまから来てくれませんか?」
「明日からクランクインなんだぞ。用があるのなら、それが終わってからじゃだめか」
「いや、ダメです。社長がそうおっしゃっています」
それで仕方なく出かけていったら、伊藤満と他に社員が何人かいましたね。その場で「三船プロをやめてくれ」と言い出されたんです。
「社長がそういうのなら仕方ないが、映画はクランクインするんだぞ」
「その映画も役者も連れていって構わないから辞めてください」
というやりとりがありました。
そのときの私は、自分が会社を辞めることになっても、役者たちは全員置いていくつもりでしたし、一人ででていくつもりでした。
田中は訳もわからずに、解雇を受け入れたというが、この話には違和感がある。
三船と長い付き合いで、片腕と呼ばれるほどの信頼を得ていた田中が、なぜ会社を辞めさせられるのか、三船本人に会って直接理由を聞かないと納得できないのではないか。
三船もまた、右腕として会社に尽くしてくれた男に対して、そのような対応をするだろうか。
それでも、私が直接スカウトしたり、慕ってくれる役者が何人かいたので、「俺が辞めたら、所属役者が何人か辞めるかもしれないが、いいのか」と言うと「いいです」となったので、「では俺には、以前に退職した平本専務と同じ2000万円の退職金を払え。それ以外のメンバーにもしっかり退職金を払え」という趣旨のことを言って、書類を書かせました。
口約束が多いこの業界ですが、ドイツでは何か問題があったときの為に、書類を作るののが慣例ということは、ミュンヘンで苦労した中沢に教えられましたからね。
私が会社を辞めるということは、すぐにマスコミにも知れ渡ってしまい、記者が集まってきたので、岡本監督の映画の撮影が出来なくなたんです。
それで岡本監督から記者会見をやれと言われて、東宝の会議室を借りて「三船プロを首になりました」と話したわけです。
この後、三船プロは、田中の他、3人を契約違反で訴えた。
裁判で、解雇される前に作った書類を提出したところ、裁判官がそれを読んで、「こういう約束をしていたのなら、裏切ったことにはならないよ」と。
そしたら、三船さんは裁判所の窓から、逃げ出したんです。
その書類の存在を三船さんはたぶん知らなかったのでしょう。裁判では勝ちましたが、書類のことで『世界のミフネ』と呼ばれた方に、逃げ出すようなことをさせてしまった。
追い込んでしまったことに対しては、本当に申し訳ないと思っています。
私は三船さんが嫌いでもなんでもない。むしろ大好きでしたから。
スポンサーリンク
三船敏郎と創価学会
ただし、田中によれば解雇にいたる理由について、思い当たるふしはあるという。
三船と北川美佳が親密な関係になったあと、社内の雰囲気が微妙に変化していったのがその一つだ。田中はこう語る。
三船さんは自分は無宗教だと、常に言っていた人だったんですよ。それが彼女と関係が出来てから、ハワイで創価学会の集会があったとき、2人で出席していた。そのため、三船敏郎が創価学会に入信したという情報が流れて広告塔のように使われたんです。
その前には、私の机の上に学界の折伏の為の本が山積みになっていたこともありました。
ある日「壽一、今夜うちに来い」と三船さんに呼ばれて行ったら、池田大作さんがいて紹介されたんです。私も学会の信者にしたかったんでしょう
北川美佳にしてみれば、三船の事実上の妻なのに、いつまでも愛人として扱われることに苛立ちを感じていただろう。
三船にしても幸子夫人に離婚を承知させることができないという弱みがあった。北川はそれなら社内に自分の味方を増やすしかないとかんがえたのかもしれない。
三船の会社の私物化問題
もう一つ、田中は三船の怒りを買っただろう原因を語った。
ある時「トリッセン」という喫茶店の近くに、土地を百坪ぐらい買って、さらにその裏に百坪の土地を買ったという話を聞いたんです。それで、平本専務に「また土地を買ったんだって?」と尋ねたら、「その土地は、史郎と武志の名義になっている」と答えたから、私は「それはおかしいでしょう。社長の金じゃなくて会社の金で買ったんでしょ。おかしいですよ」と言ったんです。平本専務は口ごもって答えなかったので、私はこの件を三船さんに話ました。
そしたら、三船さんは「壽一、あの土地には、もしも三船プロがダメになったときに売って、社員みんなに金を配ってやろうと思って買ったんだ」
「だとしても、三船プロの名義にするべきじゃないですか」三船さんは「困ったことを言うな。それは私がちゃんとするから」と答えたのかな。
そのときのやり取りで、三船さんは私にかなりカチンときたはずなんです。それからすぐですよ。平本専務を辞めさせることになったのは。
この話が事実なら、三船は会社を私物化して、蓄財を増やしたことになるが、三船は海外の映画出演をしたときには、自分のギャランティを使い、撮影所のために最新型の撮影機材を買ったり、日頃苦労を掛けているからと、スタッフの家族にまで気を遣って慰労会を開いたりする男である。
自分さえ贅沢な暮らしをしていれば、他はどうであってもいいという人間ではない。
果たして史郎、武志名義の土地は購入されていたのか。
武志はのちに財産分与の場に立ち会っていたが、「なかったですね」と即答した。
「ただ母親は、父が稼いだ金を固定資産に換えることをよくやっていました。ものを残すことに長けていた人だったから、一時的に子供の名義にした可能性はあります。」
父の三船が自分の資産を増やすために画策したのではない、という見解だ。
また後年に「三船芸術学院」を建設するとき、土地の名義は幸子になっていた。次男の武志はその土地を売った金で援助してもらい、千葉県に「東京パワーボートセンター」を設立。主に、保管してある船の整備や修理をする会社の代表になった。
「目黒の母の実家にしても、母は敷地の一角にアパートを建てて、賃貸料で暮らしてましたから、特に仕事をしなくてもなんとか生活はできていたんです」
スポンサーリンク
三船プロの崩壊の最大の原因
田中によれば、成城の本社に創価学会の社員が増えていくにつれ、本社の雰囲気がこれまでと違ってきた。映画製作で結束していた会社のはずなのに、どうしたんだろうという疑問が生まれたが、田中はそれでも独立することは考えていなかったという。
銀座の芸能部は売れっ子の役者が多くて、仕事が結構あったし、製作費が次々に入ってくるので金は回るわけですよね。それで「本社がなんだかんだ言うけど、芸能部のおかげで助かってるんだ」と言ったことはあります。
このことは、たぶん三船さんの耳にも入っていただろうと思います。愛人になった北川美佳は芸能部に所属していたので彼女から聞いていたのかもしれません。三船さんにとってはかなり面白くない話だったろうと思います。
基本的に三船プロの崩壊の原因は愛人が創価学会員だったということなんですよ。
この点においては、次男の武志も認めている。
父が家にいる時は美佳さんが学会のお経をあげるのに付き合って、側に座っていましたね。自分がお経を唱えることはなかったです。彼女が熱心な信者なので、それに合わせていた感じですね。学会の仏壇が段々と大きく立派なものに変わっていったことは覚えています。また成城に自宅は一軒家だし、美佳さんは家事をする人ではないので、いつも2人ぐらいお手伝いさんがいたのですが、その人たちが学会の信者に様変わりしていきました。
武志はまた、三船に頼まれ、創価学会の本尊がある富士宮まで、父と美佳と美佳の母の3人を車に乗せて、何度か送っていったという。
「父の態度を見ていると、信仰心のために通ったとは思えませんでしたけどね。むしろ、美佳さんが喜ぶならばと、参加しているような感じでした。
参考文献
※ サムライ 評伝 三船敏郎(文集文庫)
U-NEXT で三船敏郎出演作を観る(31日間無料)
1920年(大正9年)、4月1日、中国山東省青島に三船家の長男として生まれる。父の徳造は秋田県出身で、中国に渡り、青島、泰天、天津あたりに店舗を構えて「スター写真館」という写真店をやったいたという。日露戦争では、従軍カメラマンをやったという父。幼い頃から大連で家業を手伝い、写真技術に詳しくなった。大...
≫続きを読む
三船敏郎に惚れた黒澤明三船敏郎の衝撃デビュー作「酔いどれ天使」は、山本嘉次郎監督の「新馬鹿時代」で組まれた闇市のセットが大掛かりだったので、解体する前にもう一本撮っておきたいという都合から製作されることとなった。「日常性を描くなんて、もうごめんだね。俺の今やりたいのは逆に日常性の中からカアッと飛躍し...
≫続きを読む
三船と幸子夫人の結婚の媒酌人は、山本嘉次郎監督が務めた。挙式は青山学院大学の礼拝堂で行われ、幸子夫人は22歳、三船は29歳。お似合いの美男美女カップルであったという。三船の両親は二人ともお亡くなりになっていたため、親代わりとして志村喬夫妻が出席したという。「デビューからしばらく、父は岡本喜八監督とい...
≫続きを読む
三船敏郎は生涯に150本の映画に出演している。そのうち、黒澤明とのゴールデンコンビでの作品は16作品である。『酔いどれ天使』『静かなる決闘』『野良犬』『醜聞』『羅生門』『白痴』『七人の侍』『生きものの記録』『蜘蛛巣城』『どん底』『隠し砦の三悪人』『悪い奴ほどよく眠る』『用心棒』『椿三十郎』『天国と地...
≫続きを読む
三船敏郎と言えば、黒澤明監督の『羅生門』『七人の侍』『用心棒』などの映画タイトルを連想する人が多い。そう黒澤明とのタッグ作品である。しかし、昭和33年に公開された稲垣浩監督の『無法松の一生』を三船の代表作であるという人も少なくない。。稲垣監督と三船は、20本の映画を作っている。以外かも知らないが黒澤...
≫続きを読む
三船敏郎は「男のくせにツラで飯うぃ食うのは好きではない」と俳優業を嫌がっていた面があったが、いざ役を与えられたときには、骨身を削るほどの努力で監督の期待に応えようとした。撮影前にセリフを全ておぼえることなど、彼にとっては当然のとこであり、その努力は現代劇、時代劇に関係がなかった。『羅生門』にはじまり...
≫続きを読む
昭和39年当時、東宝は国内だけではなく、ホノルル、サンフランシスコ、ニューヨーク、ロサンジェルスに直営館を持っていた。ロスでの直営館『東宝ラブレア劇場』の運営を任されていた渡辺毅は元東宝撮影部の助監督。三船の海外映画のギャラの基準を作ったのが、この渡辺毅である。ストライキを起こし、お荷物社員として左...
≫続きを読む
スター街道を着実に進み、国際的にも認められる俳優となった三船。デビューから10年を経て、「東宝のニューフェース」から、「日本を代表する俳優」へ成長していった。海外からの出演依頼も増え、昭和36年には、初の海外進出となるイスマエル・ロドリゲス監督のメキシコ映画『価値ある男』に出演、。アカデミー賞外国語...
≫続きを読む
昭和43年、三船は杉江敏男監督、黒澤明・山中貞雄脚本の『戦国群盗伝』という時代劇に出演した。共演は鶴田浩二である。鶴田は前年に東宝と専属契約と結んでおり、松竹から移籍してきたことを強く意識していた。「何か三船だ!俺も天下の鶴田浩二だ!」と公言してはばからなかった。彼は三船とは正反対に、付き人を何人も...
≫続きを読む
昭和42年、成城9丁目の敷地に完成した真新しいステージでの第一作目は、小林正樹監督を迎えての時代劇『上意討ち 拝領妻始末』であった。しかし、小林が松竹の専属監督だったからというよりは、これまでつきあっていた監督たちとは違う資質の監督であったため、三船には苦しい経験となった脚本家橋本忍が回想する三船の...
≫続きを読む
昭和43年、三船敏郎と石原裕次郎は東映、東宝、日活、大映、松竹の5社が結んだ「監督や俳優は貸さない、借りない、引き抜かない」という協定に立ち向かった。当時の映画界にはこの「5社協定」を破ったものは、全ての社から拒絶され、映画界から追放されるという暗黙のルールがあった。三船は東宝、石原は日活とそれぞれ...
≫続きを読む
日本の映画市場は、テレビの出現によって1958年(昭和33年)をピークにして、斜陽産業になっていく。テレビだけではなく、娯楽の多様化も相まって、5年後には観客数が半減してしまい、映画産業自体が危機を迎える。大手プロダクションは事業規模を縮小せざる負えない状況であった。東宝はまず黒澤明に独立させると、...
≫続きを読む
映画業界は大手5社が「俳優、監督を貸さない借りない引き抜かない」という5社協定を結んでおり、これに背いた者は、暗黙の了解で干されるというルールが存在していた。大映社長の永田雅一の主導で成立したこのシステムは、1971年をもって自然消滅するまで15年以上にわたって続いた。元々は戦後日活撮影所が映画製作...
≫続きを読む
自社に本格的な撮影所を構えてからの三船プロは多忙を極めた。昭和42年の『上意討ち』にはじまり。同年の『日本でいちばん長い日』、43年には『黒部の太陽』『連行艦隊司令長官 山本五十六』『祇園祭』『太平洋の地獄』の四本に出演。そして昭和44年の『風林火山』と、7本の映画に立て続けに出演し、精神的、肉体的...
≫続きを読む
『風林火山』の製作の直後、マスコミを騒がす事件が起きた。昭和44年公開の『御用金』途中降板劇である。この作品はフジテレビと東京映画の製作で、東宝の配給。監督はこれが映画5本目となる五社英雄だった。主演は仲代達矢と丹波哲郎。日本初のパナビジョンカラーで撮影するという触れ込みだった。田中壽一は疲れ切って...
≫続きを読む
三船敏郎は、世間の評価とは別にスター気取りが嫌いだった。映画にかかわっている人間かは監督から主役、端役、その他大勢のキャストや、裏方などのスタッフにいたるまで同等の仲間と考えていた。それを如実に表すのが、宇仁が語る次のエピソードだ。『椿三十郎』の撮影のときは、一月か二月の寒い時期でした。斬られ役はみ...
≫続きを読む
勝新太郎は、かつたて三船と対談した日のことをこう語っている。「酒を飲みかわしながら話したんだが、一緒にいることでひとつ格が上がったなぁ、とフッと思えるような人だった…」三船敏郎は酒癖が悪いとか、酒乱とか言われているが、本当だったんだろうか?関係者の証言三船は気遣いが日常的、心根が優しく、几帳面、責任...
≫続きを読む
成瀬己喜男監督が死去し、黒澤明、木下恵介、小林正樹、市川崑ら4人が集まって『四騎の会』を発足させた昭和44年。三船は岡本喜八の監督・脚本で『赤毛』の撮影に入った。女郎役の一人だった名もなき女優この作品で三船は運命の女性出会う。三船の側近の田中壽一は、喜多川美佳についてこう語っている。『赤毛』には女郎...
≫続きを読む
三船プロを立ち上げてからの三船敏郎は、会社の大黒柱として、いろいろな作品に精力的な働かざるをえない状況であった。時代は映画からテレビへとシフトチェンジに移っており、国内での映画オファーや、三船プロの売り上げも伸び悩んでいたが、三船には海外からのオファーが絶えなかった。企画はかなりの数があったが、比較...
≫続きを読む
数々の名作を生み出してきた黒澤・三船の黄金コンビだが、昭和40年の『赤ひげ』を最後にして、二度と仕事を共にすることはなかった。そのため、監督と三船と関係に何か問題が起きたのではないか、という不仲説が今も流れている。ちまたの噂は「黒澤が三船の酒癖の悪さに嫌気がさして、使いたがらなかった」とか、「黒澤プ...
≫続きを読む
「うちの父が三船さんのことを嫌いだなんて言ったことは、一度もありませんよ。」そう断言するのは、黒澤プロダクション社長で長男の久雄氏だ。黒澤明が世界中から注目を浴びたのは、三船さんのお蔭だと思います。父は三船敏郎という役者の存在感をうまく生かして注目を浴びた。黒澤明の映画人生において、彼がいたことによ...
≫続きを読む
『赤ひげ』以降、黒澤明監督、三船敏郎主演の映画は実現しなかった。不仲説もあるが、色々な関係者の証言をまとめると、嫌いになって離れていったわけではなさそうだ。ただ、一筋縄ではいかない、なにか長年連れ添って熟年になって離婚した夫婦のような感じもする。このページでも、また関係者の証言を追っていきましょう。...
≫続きを読む
当時、三船の右腕として働いていた田中壽一は、黒澤と三船が巷で言われるより、もっと親しい関係を築いていたと話す。昭和51年頃だったか、黒澤さんが会社にやってきて、「娘の和子が結婚するんだ」と話されたんです。相手は加東大介さんの息子さんで、三船さんも私もよく知っていた人です。私がお祝いを言うと「だけど、...
≫続きを読む
スティーブン・スピルバーグ監督作品『1941』に三船が出演した昭和54年の8月末、三船の片腕と呼ばれ専務であった田中壽一が、三船プロの俳優のほとんどを引き抜き、独立するという事件が起きた。田中は竜雷太、多岐川裕美、秋野暢子、真行寺君江、夏圭子、岡田可愛、勝野洋、らのテレビで活躍する俳優25名と、社員...
≫続きを読む
三船プロに残った社員たちからは、「造反の首謀者」「裏切者」「恩知らず」の汚名を着せられた田中だが、三船敏郎に対うする思いは、愛の告白に近いほど深かったという。映画の企画や打ち合わせがあって、外国へ行った時、私は三船さんと一緒にいて、何度も身震いをしました。例えば、シャルル・ド・ゴール空港の税関で周囲...
≫続きを読む
三船プロを分裂させた上で設立した「田中プロモーション」は、高倉健主演の「駅 STATION」「海峡」「居酒屋兆治」などの話題作を次々と製作。最盛期の昭和57年には年商14億円を上げる絶好調っぷり。しかし、翌年昭和58年には、副社長だった阿知波伸介が竜雷太、秋野暢子らタレント15名を引き連れて独立。今...
≫続きを読む
三船プロダクションという会社が分裂してから、3年後の昭和57年2月11日、三船敏郎はまたしても悲な出来事に遭遇する。新人の頃から親のように慕っていた志村喬が病死したのだ。志村と三船は、谷口千吉監督の「銀嶺の果て」から熊井啓監督の「お吟さま」までの約30年間に、52本もの作品で共演している。男優の中で...
≫続きを読む
平成10年、1月24日に行われてた三船の葬儀・告別式では、生前に親しかった千秋実や香川京子らが弔辞を読んだが、黒澤明は体調不良で出席できず、息子の黒澤久雄が代読した。三船君、今日は君の葬式だというのに、僕がそこへ行けないということをまず、謝ります。いまだに足の調子が悪くて、表に出られないのです。僕も...
≫続きを読む