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映画を愛して、映画に愛された男「黒澤明」
黒澤明が生まれたのが、1910年。
一般に映画が生まれたのが1895年。
少しの差はあるが、映画の誕生から間もなくこの世に生を受けた黒澤明は、正に映画の歴史と共に、その生涯を駆け抜けた人でありました。
大正時代、近大国家を目指す日本でも、西洋に遅れながらも新しい映画というカルチャーの渦が起こり、多くの人が映画という新しい市場に携わっていきます。
その渦の中に黒澤明もいました。
もし黒澤明が、あと10年早く、もしくはあと10年遅く生まれていたら、今現在の名声を浴びるほどの「世界のクロサワ」になっていなかったのかもしれません。
それぐらい、映画という芸術(市場も同じく)の栄枯盛衰と黒澤明の栄枯盛衰は時代的に一致しているのです。
正に映画の申し子として日本に生まれた人でありました。
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黒澤明の歴史 〜生い立ちから晩年まで〜記事一覧
黒澤明の少年時代 〜関東大震災の被災とロシア文学への心酔〜
絵画に目覚めた少年時代1910年、父・勇と母・シマの4男4女の末っ子として東京都に生誕。父は現在の日本体育大学の理事をしていた。1916年、財界人や有名人の子弟が多かった森村学園の付属幼稚園に入園。しかし数年後、父・勇が仕事での不正を追求され、理事を退く。私立の森村学園から公立の黒田尋常小学校に転校...
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白痴1951年、ドストエフスキー原作の「白痴」を松竹で製作、公開。松竹との間では前後編2部作で4時間半に及ぶ大作として、契約が交わされてたはずであったが、いざ完成すると、暗いだの長いだの難癖をつけて、結局2時間46分に短縮されて上映された。今日だったら裁判沙汰であろうエピソードだが、当時は泣く泣く受...
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1954年、1年以上の製作期間と2億1千万円というと当時の通常の7倍ほどの破格の制作費をかけて作された「七人の侍」が公開される。アメリカの西部劇が大好きな黒澤が作った日本版西部劇ともいえる。「だいたい日本映画にはコッテリとした、たっぷり栄養のある娯楽作が少ない。この辺でそういう味の満喫できるものを作...
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日本映画界で頂点を極め、世界でも指折りの監督となった黒澤明。しかし彼が描く映画のスケールは日本の映画界では実現困難な時代となっていた。いよいよ世界へ出ていくより道が無くなった黒澤。「赤ひげ」が公開された後、黒澤は東宝と手を切りたいと考えており、もうすぐ切れる東宝との専属契約は更新しない考えであった。...
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照明器具落下事件12月4日、プロデューサーのエルモは9時に撮影所入り。スタッフは準備に余念がない。しかし黒澤はまだ来ていない。彼は前夜から今朝まで酒を飲み続け、睡眠薬も服用。現場に現れたと思ったら機嫌が悪く、カリカリしていてスタッフを怒鳴りつける。スタッフは対応に戸惑う。今日も現場を見学しようと午前...
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京都を離れ、ハワイ真珠湾の撮影現場に戻ったエルモ・ウイリアムズは、この映画の正念場とも言うべき戦闘場面の撮影準備の大詰めに追われていた。ところが、京都にいる製作主任からはトラブルの報告が続く。エルモは苛立つ。ハワイの撮影は文字通り命がけ。改造したゼロ戦編隊を生身のパイロットが飛ばし、米海軍から借りた...
黒澤明とトラ・トラ・トラ! 精神崩壊していく黒澤と呆れる現場スタッフ!
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12月22日、黒澤はエルモを撮影現場に呼ぶ。ステージ入り口からセットまで赤じゅうたんが敷かれ、ファンファーレが鳴り、スタッフは直立不動で、エルモを迎えた。キャメラ脇の椅子までエスコートされたエルモは黒澤に、「ヘルメットを着用してください。照明器具が落ちてくるかもしれません。」と言われる。その途端、天...
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